ババン時評 きっとよい年?100兆円予算

 

新年度は、初の100兆円を超える国家予算となる。増える主因は、消費税増税による消費の落ち込みを防ぐための、増税分を上回る消費者対策の大盤振る舞いだ。増税の目的は赤字財政の建て直しではなかったのか?

財政が立ち行かないから増税するというのなら、国民にある程度は痛みを強いるとともに、予算規模を押さえるのがスジではないか。にもかかわらず、この大型予算案は、「経済再生と財政健全化を両立させる予算案」だと、菅官房長官や麻生財務相は胸を張る。で、その狙いを実現する3本柱は「人づくり革命」「生産性革命」「財政健全化」だ。

たしかに、予算の膨らむやむを得ない要素はある。まず「人づくり革命」では、保育施設や保育士の充実、幼児教育の無償化や給付型奨学金の拡充などがある。

しかし次の、「生産性革命」で謳う「持続的な賃金上昇とデフレからの脱却につなげるための生産性向上」などは、6年がかりのアベノミクスで成果を上げ損ねているテーマだ。第一、投資の促進、賃上げ、研究開発など生産性向上の主役は企業である。これに関する大型国家予算は、ほとんど効果の上がらないバラ撒きに終わるだろう。

さらに、「財政健全化」では、安倍政権は、毎年国債発行額を減らしてきたと自慢するが、例えば18年度の国債発行額は前年度減だが、それは当初予算での話で、2次補正予算での国債発行額を加えると、18年度の国債発行額は17年度予算を上回ると指摘されている。

そういうごまかしは止めて、高齢化などによる社会保障費の伸びや、中期防衛力整備費の増加など、一定の増額はやむを得ない面を説明した上で、そこにこそ消費税増税分を重点的に充てるべきではないか。

それを考えれば、増税分を上回るサービス支出で国民の目先をごまかそうとするような短絡的な施策は止めるべきだ。第一、たかだか数千円の還元で消費者を喜ばせ、消費税増税を納得させられると“踏む”政権の魂胆が情けない。(2018・12・27 山崎義雄)

ババン時評 失われた「三方良し」

 

大方の予想に反して日産元会長のゴーン氏が再々逮捕された。今回は、オリの中で粗末な日本のオセチをいただくことになりそうだ。内外にはゴーン氏支持や同情の声もあるが、個人の損失を会社のツケにした疑いの今回は、日本の司法のルールに従っていただくしかないだろう。

今月某日、某テレビの某番組で某氏(橋下徹長嶋一茂木村太郎)らが、ゴーン氏について語り合い、彼の報酬は世界的にみれば高すぎない、遠慮なくもらうべきだ、日本の司法はおかしい、もし結果が無罪となったらどうするのだ、といった具合に、3氏の呼吸がぴたりと合って盛り上がっていた。

冷静な分析を欠いた軽薄な話の盛り上がりは実にテレビ的だが、それにしても3氏の呼吸の合い方は異様だった。うわついた仕事でしこたま稼いでいるお三方の感覚とご意見は、地道に稼いでいる一般勤労大衆や一般市民の感覚とはだいぶズレがあるようだ。

一方、経済同友会の小林喜光代表幹事は、今月の定例記者会見で、海外の経営者の高額報酬は年30億~50億円というケースもあるとしながらも、「年に1億円以上もらってどうするんだ」「20~30年経ったら亡くなる人たちだ」と言い、さらに、「日本は『三方良し』」の精神で「社会のことも考えている」と言ったという。

よく知られる「三方良し」は、近江商人による、「売り手良し、買い手良し、世間良し」という商売の心得を教えたもの。「近江商人」は、近江の国における「地商い」ではなく、近江国外に出て広く商う。その近江商人が、よその土地においてさえも「世間良し」を大事に考え、商いの3本柱の1本に据えているところに大きな意味がある。

その現代的な意味を、小林氏が指摘しているのだ。利益を追求し私腹を肥やす現代の資本主義が喪失してしまったのは、まさにその「世間良し」の思想である。言いかえれば、本来、資本主義が持っていたはずの「社会還元」の理念がいま失われているのだ。

小林氏の発言は、上記の3氏にも参考にしていただき、ついでに、お手盛り高額報酬を狙ったあげくに退陣に追い込まれた産業革新投資機構の旧役員9名様にも反省の材料にしてもらいたいものだ。(2018・12・22 山崎義雄)

 

ババン時評 男女格差を乗り越えて

 

今年後半の話題に「男女格差」があった。大学入試の面接で、コミュニケーション能力が高い女子に比べて不利な男子受験生に採点上でゲタを履かせた、などと弁明した大学もあった。男女格差の国際比較で日本は149カ国中110位との調査も出た。

これは世界政治経済フォーラムによる調査で、特に政治分野における男女格差では、日本は125位と低い評価だ。欧米では優秀な女性国家元首もいるが日本ではまだいない。しかし女性の比率を上げればいいと単純に言うのもどうか。優秀な片山さつき地方創生担当大臣もチョンボをして減速、野田聖子総務大臣も総裁の座まではイマイチだ。

いきなり話が変わるのだが、私と同じ演歌大好き人間で知友のT氏が、ネットエッセイで、「股旅演歌」について蘊蓄を傾けている。その中でとりあげているのが、股旅演歌の名曲「鴛鴦(おしどり)道中」(作詞 藤田まさと、作曲 阿部武雄)の話である。

4番の歌詞 ♪「泣くも笑うも懐(ふところ)次第 資金(もとで)なくしたそのときは 遠慮要らずの女房じゃないか 丁(ちょう)と張りゃんせ 私(わし)が身を」についてT氏は、「妻が夫に尽くす究極の夫婦愛を謳い上げていて、初めて聴いたとき(子供のころ?)から大変感銘を受け、自分もぜひこのような女性を理想の妻にできたらと願って、結婚当初から何度となく聴かせたが、すこぶる評判が悪い」というのだ。思わず笑ってしまったが、この歌の精神は、もはや死語となった「男尊女卑」の代表格ではないか。

T氏の奥方が怒っても無視しても当たり前だが、戦前戦後はいうまでもなく、わずか2~30年前までは、「男尊女卑」という四文字熟語は、暗黙のうちに了解され、あるいは無視され、時には笑われながらも、少なくとも怒りをもってバッシングされずに活きていた。

その「男尊女卑」がいつの間にか“自然死”して、急速に「男女格差」が問題視され、その解消に向かって進んでいるのが現在だ。この先は、政治の世界でも、いたずらに女性の比率を増やせと叫ぶより、まずは政治を目指す女子自身が、選挙民を説得する確かな見識と主張と気概を持つべきではないか。ともあれ、今度の忘年会では懐かしの「鴛鴦道中」を唄ってみたくなった。(2018・12・20 山崎義雄)  

ババン時評 現代という「痩せた畑」

 

ヒマをもてあますはずの後期高齢者になっても、あっという間に年の瀬を迎える。平成時代最後となる今年を振り返ると、金銭欲の権化、日産ゴーン氏をはじめ企業不祥事の続発、政官界の疑惑など、国の指導層の“劣化現象”が目を覆うばかりだった。

こんな年の瀬に思い出すのは、言葉の魔術師などと言われた作詞家の阿久悠が残した言葉である。阿久が亡くなって11年ほどにもなろうか。彼が残した著作「清らかな厭世」にこんな言葉がある。現代の若者について言っているのだが、「痩せた畑に蒔かれた種子、成長の栄養もなく、結実の精気もなく、ヒョロリとした茎と萎びた葉が風にそよいでいる」ようだと表現する。

しかし阿久はそんな若者を憂いているのではない。「痩せた畑」を憂いているのであり、畑の栄養分になっていたはずの(昔の)「大人たちが英知と生への実感で作り出した言葉」が失われた現代を憂いているのである。著者は少年時代を振り返って、「ぼくらが少年の頃は、父や先生や名もなき職人達からボソッと語られるそれら(の教え)を命綱のように掴んで大人になろうとしたものである―」と言う。

同時に阿久は、「若者はほっといても若者だが大人は努力なしでは大人になれない」とも言う。残念だが、そんな大人がいなくなった。心構えを持たずに大人になった人々が企業不祥事を起こし、社会のリーダーたちがカネまみれになりウソをつく。

阿久は、「痩せた畠」、「痩せた大人社会」に警鐘を鳴らし、ひいては大人社会と子供社会の断裂に警鐘を鳴らしているのである。警世家阿久悠の「ラストメッセージ」を思い出す平成最後の年の瀬である。(2018・12・16 山崎義雄)

ババン時評 漂流するアベノミクス

 企業業績が伸びているにもかかわらず、アベノミクスが期待する賃金の上昇も、企業の設備投資も伸びず、最終目的の物価上昇も見えてこない。その上、今回の入管法改正による安い労働力導入で、ますます日本の低賃金化が進む懸念もある。

ハイパーインフレが起きて日本の経済は崩壊するという説がある。ハイパーインフレは困るが、適度な?インフレが起きればアベノミクスのデフレ脱却は達成され、財政赤字も改善される。しかし今のところインフレどころか、アベノミクスの期待するささやかな物価上昇さえ起きる気配がない。

要するに、アベノミクスの機能しない原因は、目先の問題としては、賃金が上がらない、可処分所得が伸びないためだ。しかしアベノミクスが狙う物価上昇目標が達成できない原因は他にあるのではないか。

いまわが国は、物価上昇やインフレの起きにくい時代への転換点にあるのではないか。つまり、中長期的に見れば、急激な人口減少と高齢化の進行するわが国の現状と将来に原因があるといえるのではないか。

とりわけ大きな問題は労働生産人口の急激な減少だ。「日本の将来推計人口」によるとその労働生産人口は現在の8、000万人弱から2060年には4、000万人を少し上回る程度まで減少するという。その間、高齢者人口のほうはさほど増えるわけではない。むしろ4,000万人弱の横ばいで進み、2040年をピークに微減で推移する。しかし人口構成比では高齢者の比重が重くなる。

かくして、減少する労働者と比重を増す高齢者でかたちづくる未来社会においては、モノやサービスの総量が伸びるわけがない。すなわち需要も購買意欲も総量としては減少に向かわざるを得ない。これでは、多民族国家でも目指さない限り、景気の過熱もインフレも起こらない。少なくともわが国自体にインフレを起こす力?はない。収縮する未来の社会に向かう時代の曲がり角で、アベノミクスはもがいているのではないか。(2018・12・13 山崎義雄の「ばばんG」に同テーマの拡大版あり)

ババン時評 「ボーっと生きてんじゃねーよ」

 

暮れになって、今年も恒例の流行語大賞が発表された。第35回になるという「ユーキャン新語・流行語大賞」だ。大賞は “氷上のお掃除屋さん” 北海道のカーリング・チームの合言葉?「そだねー」となった。

ネットをのぞいたら、「ネット記者」なる人が、「新語・流行語大賞の半分くらいがわからない→「ご飯論法」「ボーっと生きてんじゃねーよ」ってなに?と言っていた。ついでだから大賞選考前の30のノミネート用語を見直したら、意味の分からなかったものが10個ほどあった。ネット記者氏よりは知っていたことになる!

ご飯論法」をネットで見たら、国会答弁の悪質な論点ずらしをネットで指摘した上西充子法政大教授の話を受けて、ブロガーの紙屋高雪氏が命名したものだとか。上西教授は、具体的な国会答弁を例示したうえで、こうツィートしたらしい。

Q「朝ごはんは食べなかったんですか?」A「ご飯は食べませんでした(パンは食べましたが、それは黙っておきます)」

Q「何も食べなかったんですね?」A「何も、と聞かれましても、どこまでを食事の範囲に入れるかは、必ずしも明確ではありませんので・・」

笑える。“ご飯”の範囲で、語義の広い日本語の特性を論理のすり替えに“活用”している。論点ずらしの指摘は小気味いいが、「ご飯論法」のネーミングも秀逸だ。

笑えるのは「ボーっと―」も同じだが、こちらは深い意味はない。NHK番組「チコちゃんに叱られる」で、頭デッカチのかわいいチコちゃん人形?が、出演タレントが答えに窮すると、途端に厳しい顔をして「ボーっと生きてんじゃねーよ」とカマす。ボーっとテレビを見ている私のような半ボケ老人まで笑ってしまう。

しかしこの啖呵、上司が部下に言ったらパワハラ、若い者に言われたら怒りか屈辱感、こわもてのお兄いさんに言われたら恐喝で、笑ってばかりはいられない。やはりこれは流行語になってもらわない方がよさそうだ。(2018・12・11 山崎義雄)

 

ババン時評 角さんの人間操縦術

田中角栄ブームは山を越えたかとも見えながら、いまだに“角栄本”の新刊が続く。どうやらブームとは言えない角栄研究の大転換期らしい。政治家としての業績再評価と人間角さんの見直しが2本の柱だが、類書をみると人間的魅力の再評価が中心だ。

たとえば、流布している角さんの言葉にこんなのがある。誰が角さんに聞いて活字にしたのか初出を知らないが、いわく、「世の中は、白と黒ばかりではない。敵と味方ばかりでもない。その真ん中にグレーゾーン(中間地帯)があり、これが一番広い。そこを取り込めなくてどうする。天下というものは、このグレーゾーンを味方につけなければ、決して取れない―」。たしかに、そこに向かって苦労人の角さんの、懐の広い人間力が発揮されたと言えよう。

もうひとつ例を挙げると、よい人間関係を保つには、何をおいても祝儀・不祝儀に駆けつけることが大切だが、角さんは、こう言っていたという。「祝ごとに遅れることはあっても、見舞いや、弔問などの不祝儀には何をおいても真っ先に駆けつけろ―」。角さんは身をもってそれを実践していた。これは、角さんの「日本列島改造論」(1972年)の版元である日刊工業新聞社の元社長に聞いた話である。

ついでに言えば、「日本列島改造論」の縁で娘の田中真紀子さんは、田中政治の表裏と人間角栄の思い出を語る著書「父と私」を日刊工業新聞社から出した(2017年刊)。おもしろいのは、幼いころから「マコちゃん、マキ子、マコスケ、じゃじゃ馬、シャモスケ」などと呼ばれて父に愛され、長じては政治の世界でも家庭でも、いつも一緒だったというスタンスで本書を書き進めた真紀子氏が、本書の終わりのほうで思わぬホンネ?を漏らしている。

すなわち、「幼いころから私は父と一緒にいることは苦手であった。それは、父といると言い様のない息苦しさに襲われて、こちらが疲労困憊してしまうからである。田中角栄という人は神経を弛緩させる術(すべ)を知らずに育ったらしく、何事にも全身全霊で取り組んでくる。常に真正面から息継ぐ間もなく剛速球を投げてくるので、相手をする方はたまったものではない」というのだ。角さんの人間くささと“熱気”が伝わってくるようだ。

こうした角さんの言動を「人間操縦術」などと言っては失礼だろう。角さんの発揮する言動は「体当たりの人間力」とでもいうべきか。いま起きている角栄ブームは、先行き不透明で閉塞感の強まる時代だからこそ、明るく、前向きで、強烈なリーダーシップが求められているということではないか。(2018・12・8 山崎義雄の「ババンG」に関連エッセー数本あり)