ババン時評 日本語よどこへ行く

 

2000年にノーベル科学賞を受賞した白川秀樹さんが、アジアで日本人のノーベル賞受賞者が多い理由について外国記者に聞かれ、「日本では日本語で書かれた教科書を使い、日本語で学んでいるからではないか」と答えた。これは先の一文「英会話できなくてけっこう」で紹介した。

その後、白川さんは考察を続ける。「これまで日本の科学者たちは日本語を思考の道具として使ってきた。江戸時代から明治維新を経て、海外からの科学や文化も、先人たちが外国語の文献と取り組み、思考を巡らせて翻訳してきた日本語の言葉と概念で今の時代につながってきた。その恩恵を私たちは受けてきた」と。

また、「日本語で論理的に考えられない人は、英語でも論理的に考えられないだろう。必要に迫られて学んだ外国語によるよりも、長年使いこなしてきた母国語の方が、より核心に迫った理解ができるし、より発想の自由度が大きい」と確信する。

5年ほど前に出た本に「国語は好きですか」(外山滋比古著 大修館書店)がある。著者は著名な学者であり、エッセイストである。英語教師の経歴もあり若い頃は英語雑誌の編集にも携わった。その外山さんが、小学校低学年から英語教育を始めることに警鐘を鳴らしている。

自分の国のことばを放り出して、よその国の言葉をかじるのは、人間として疑問であるとまで言い、まずしっかり国語の力をつける。そして外国語を学ぶ。それが順序であるとする。堅実な生活と思想を持つ国民は、文化的なナショナリズムをもつのが当然であると強く主張している。

そして日本的文化すなわち日本語の代表例として短歌と俳句を挙げる。ヨーロッパの詩は線的構造で“線の引き方“でおもしろさを出すが、俳句は点的構造で、点を散りばめて思いを象徴的に表現する。線状表現は解釈が容易だが、点的描写は、点を線化、面化するのに高度の知的作業が要求されるという。先の白川さんの「核心に迫った理解」「発想の自由度」に通じる。

先に「読み書き嫌いな子が増えた」という一文を書いたが、経済協力開発機構OECD)による国際的な学力調査で、日本の子供たちの読解力が著しく低下しているという。スマホSNSの普及も影響しているのではないか。中長期の教育指針を示すべき文科省の、昨年の国語・英語教育施策の右往左往ぶりは目に余る。日本語の漂流は許されない。(2020・1・12 山崎義雄)

ババン時評 英会話できなくてけっこう

 

今どき外国語の1つぐらいは、とりわけ英会話の基本ぐらいは身につけなければ恥ずかしい、などとコンプレックスを持ってしまう向きも多いはずだ。しかし、肝心の母語・日本語を流ちょうに喋れる日本人がどれだけいるだろうか。

英語教育の是非を巡って論議が展開されている。朝日新聞のインタビュー(L1・12・17)で、中央教育審議会文科相の諮問機関)会長の安西裕一郎氏(慶応大元塾長)は、英語などの記述式テストの導入が見送りになったことで、日本の教育は当分の間足踏みするだろう。世界の劇的な転換の中で、日本は「教育鎖国」の状態のまましばらく推移する、と語っている。

ところが、直近の12月の論壇誌を総覧した読売新聞(L1・2・30)「入試と教育 本質を問う」(12月の論壇)では、教育や入試のあり方を巡る論考が相次いだといい、中には、「英語信仰」への批判も多いとして、以下のような意見を紹介している。

英文学の行方昭夫氏は「英語教育、『それ本当?』」(『世界』)で、英語を覚えなければ生きていけない環境下で学習すれば誰でも習得できると言う。数学者の藤原正彦氏は「『英語教育』が国を滅ぼす」(『文藝春秋』)で、英語の早期教育は日本人としての自覚や教養を積むことを妨げると言う。英語教育論の鵜飼玖美子氏は、対談「ペラペラ英語は『自己植民地化』につながる!」(『中央公論』)で、日本語に誇りがないと嘆き、日本のノーベル賞受賞者が多いのは、母語で学べる幸運があるからだと説く。

思い出すのは、筑波大名誉教授(当時)の白川秀樹さんが、2000年にノーベル賞科学賞を受賞した折の話である。外国記者から「アジアで日本人のノーベル賞受賞者が多いのはなぜか?」と質問された白川さんは「日本では日本語で書かれた教科書を使い、日本語で学んでいるからではないか」と答えたという(読売新聞 1916・2・18 白川氏論考「日本語で学び、考える科学」)。 

「英会話できなくてけっこう」というのは言いすぎだが、必要な人は習得し、必要ない人はやらなくてもいい。上記識者の意見は、誤解を恐れずに言えばいずれも英語教育を急ぐ必要はない、まず日本語を学べというわけだ。なにより、日本語でしっかり考えて表現できない者が、英語でしっかり考えて表現できないであろうことは自明の理だろう。(2020・1・9 山崎義雄)

ババン時評 「客引き国家」ニッポン?

 

カジノという“賭博場”の開帳を巡ってこんな事件が起こることは十分に予想された。カジノを中心とするリゾート施設(IR)の事業を推進する中心人物の1人、元内閣府副大臣の秋元司衆議院議員収賄容疑で逮捕された。数年後の開業を目指す政府のIR事業に影響が出るだろう。

政府がカジノ法案を閣議決定したのは2018年だ。当時は、公明党カジノ法案に賛否両論があり、日本維新の会は導入に前向きだったが、立憲民主党共産党などほとんどの野党は、ギャンブル依存症が増えるとか、マネーロンダリングすなわち不正な金の“資金洗浄”に使われるとか、暴力団の介入を招くなど予想される悪影響を挙げてカジノ法案に反対していた。

しかし、それ以前の2010年に発足している「国際観光産業振興議員連盟」、通称“カジノ議連”には、社民党共産党を除く200名を超える超党派国会議員が参加していた。カジノ法の目的は観光産業の振興と、今は許されていないパチンコ景品の換金の合法化だった。こんな怪しげな事業に多くの議員先生たちが熱くなったのはいまだに解せない。

カジノ法案が閣議決定された2018年当時、テレビで、20年近く前にカジノ賭博で名を上げた?大王製紙元会長の井川意高氏が賭博にハマった経緯を語っていた。最初は家族旅行の折りにカジノに立ち寄って、100万円掛けたら2千万円になったのが始まりで、たちまち掛け金はウン千万円から億の単位になり、バレた時には100億円超をつぎ込んでいた。

ギャンブル依存症対策では、安倍首相も公明党や野党に気を使って、日本人の入場回数や掛金の制限などを検討しているというが、先の井川氏は、日本でカジノが開設されれば賭博マニアが増え、日本でやりにくくなれば、自分と同じようにたちまちシンガポールマカオに出向くだろうと言う。“専門家”の予想だから“当たり”だろう。

カジノ賭博は外国人観光客を呼び込もうという作戦だが、巨大な外資が“胴元”になり、多くの日本人が“カモ”になる。カジノ賭博の“開帳”で、これ以上節操のない“客引き国家”ニッポンに堕落することだけはごめん被りたい。今からでも遅くない。とりわけカジノ誘致に名乗りを上げている都市は真剣に考慮すべきではないか。(2020・1・6 山崎義雄)

 

 

 

ババン時評 もう暮らしに困らない

 

令和の初夢―。日本に生まれてよかった。誰も暮らしに困らない。世界を見渡しても日本ほど穏やかでいい国はない。政治は安定しているし景気の伸びも2%前後で推移している。失業率も2%以下で完全雇用に近い。

この分で行けば、国の借金1兆円も20年ほどもすれば完全に解消するのではないか。また、高齢化による社会保障費が重荷になっていたが、団塊世代の高齢化もピークを越えて社会保障費の伸びも頭打ちから減少に向かっている。

働き口はいくらでもあるのだから、学歴格差も男女格差も所得格差さえ気にならない。産業はIT化・ロボット化されて“省人化”が進んだが、人間らしいサービス産業化で人間の働き口が増えた。老人だって役所のシルバーセンターに行けば、ボランティアから有給の仕事までたっぷりと用意されている。

特に高齢者は、知恵と経験を生かして教育や介護の分野で生き生きと活動している。第一、所得のない高齢者や低所得世帯には「生活基本給」が支給されるのだから、まずは食うに困らない。だから消費税はずいぶん上がったが誰も文句を言わない。

食うに困らないのだから、のんびりとした田舎暮らしが増えた。東京や大都市から地方へのUターンが進んだ。地方の中心都市には、医療や介護の施設が整っている。空き家の整備が進んで安い住まいが提供されている。

むかし「ふるさと創生」などといって無駄金をバラ撒いた総理大臣もいたが、今は地方に活気があふれている。農業や林業も復活したし、特色のある地方の文化が復興され継承されるようになった。各地に特色のある「芸術村」が増えている。

なんと、生活に困らないだけでなく、豊かな自然に囲まれた田舎暮らしのせいか、地方から出生率が回復して、ひところ懸念された少子化問題が自然解消に向かっている。子供が増え、若者が活気づき、独り暮らしの老人も減少に向かっている。先の国民生活アンケートでは、日本国民の生活満足度が90%を超えた―。令和の初夢だが正夢になってもらいたい。(2020・1・2 山崎義雄)

ババン時評 ゴーン被告の「正義」

 

やはりこうなった。日産自動車前会長のカルロス・ゴーン被告の海外逃亡が、新年早々の大ニュースとなった。同被告の海外逃避を察知できなかった“辣腕弁護士”も大恥をかいたが、不法にパスポートを持ち出された地検も情けない。

ゴーン被告は、「渡航禁止」を破って、航空機内の木箱に隠れて出国したが、同氏を受け入れたレバノンの現地当局は同氏の入国を「合法的」と見ているようだ。東京地裁が身柄の引き渡しを求めてもレバノン側は応じそうにない。

ゴーン被告は、卑屈な逃亡劇を演じながら、レバノン入りした途端に声明文を発表し自らの正当性を高言している。同被告は、その声明文中で、「私は正義からではなく、不正と政治的迫害から逃れたのだ」と言っている。そして「ようやくメディアと自由なコミュニケーションができる。来週からできることを楽しみにしている」と言ったらしい。

要するにゴーン被告の逃亡は、「正義」から逃げ出したわけではない。「不正」と「政治的迫害」から逃れた、というのである。ということは、ゴーン被告を裁こうとしている、会社法特別背任罪)などを定めた日本の法律を正義ではない、不正であると言っているのである。

国語辞典では、「正義」とは「正しい道理」であり、「不正」は「正しくないこと・さま」である。「正義」は「道理」であり、「不正」は「行為」だが、日本の法律は道理に反し、東京地検の逮捕劇は不正な行為だということになる。

この逃亡劇で思ったのは、哲学の祖 ソクラテスの言葉とされる「悪法もまた法なり」である。この法格言にはいろいろ疑義や解釈があるものの、多くの日本人が肯定?している“日本語の格言”であることは間違いない。

ゴーン被告の言い分に正義や道理を感じる人はいない。無知なる己を知る「ソクラテスの弁明」、「悪法も法なり」として弟子たちによる脱獄の誘いを拒否し獄中服毒死したソクラテスとは大違いである(比べるのも失礼だが-)。同被告には何としてでも日本の裁きを受けさせるのが正義であり道理であろう。(2020・1・3 山崎義雄)

ババン時評 令和の若者よ熱くなれ

 

新時代の令和元年は数カ月で過ぎ去り、あっという間に令和2年の春を迎える。これからの日本はどうなるのか。課題は多いが、新日本の未来を若者たちに託すしかない高齢者としては、なんとなく無気力に見える昨今の若者たちが気になっている。もちろんその思いは期待の裏返しで、日本の若者に失望しているわけではない。

そんな折りに、日本財団による国際的な「18歳意識調査」の結果が発表された。対象は、日本や中国、韓国、ベトナム、インド、インドネシア、米国、英国、ドイツの9カ国だ。そして結果は、アジアや欧米の若者に比べて日本の若者は社会参加意識が低いというのだ。

具体的な結果を見ると、「自分で国や社会を変えられる」と思うかどうかという設問で、イエスと答えた日本の若者は18・3%で、トップのインド83・4%とは格段の差がある。「自分を大人だと思う」では、日本は29・1%で常識的に見えるが、トップの中国は89・9%で自信満々だ。「自分は責任ある社会の一員だ」では日本は44・8%だが、トップの中国は96・5%だ。ここでも中国の若者の強気が目立つ。

さらに注目されるのは、「自分の国の将来」についての見通しだ。日本の若者は、「良くなる」9・6%、「悪くなる」37・9%などと総じて悲観的だ。自国が「良くなる」で多いのは中国96・2%、「悪くなる」で目立つのはEU離脱で混乱する英国43・4%だ。ここでも中国青年の自信が断トツだ。

調査結果からみると、日本の若者は冷めきっているように見えるが、見方を変えれば現実を冷静に見ており、日本の若者は良くも悪くも“大人”だと言えるのではないか。調査では単純に数値で比較するが、お国柄も違えば国民性も違う。歴史的・民族的な特性や教育などによって若者の“体温”や“意識”に差がでることになり、それによって回答が左右されることになるだろう。その意味でむしろ中国など、熱く答える国の青年やその国の未来に一抹の不安を感じるところがある。

昨年の経済協力開発機構OECD)の調査では、日本の若者は「科学」や「数学」で世界トップレベルにあるという。“体温”や“意識”に左右されない分野では日本の若者が強いという一例だ。その上で欲を言えば、日本の若者に“体温”の熱さや“意識”の高さが欲しいという思いも強い。そのためにも、令和の政治や教育の目がそこに向けられるべきではないか。(2019・12・20 山崎義雄)

 

 

ババン時評 令和の新“ひきこもりびと”

一般的に“ひきこもり”は良くないこと、好ましくない状態として否定的に認識されている。そのひきこもりが、今、中高年齢層で増えているという。世の荒波をくぐって生きてきたはずの中高年齢者がひきこもりになるというのはどういうことだろう。あるいは、中高年者のひきこもりには、それなりのレーゾンデートル(存在理由)があるのだろうか。

そして、従来のひきこもりを越えた“価値”のある中高年の新たな“ひきこもりびと”が出てきているのではなかろうか。先の「ババン時評 “ひきこもりびと”の生き方」では、単なるひきこもりを越えた意味を持つ“ひきこもりびと”を想定して書いた。

前回は、「問題は、自立とは何か、ということである。一般的な社会生活を送り、仕事をして収入を得られれば本物の“自立”ということになろうが、それを“ひきこもりびと”に求めるのか。一歩進めて考えれば、“ひきこもりびと”には、それにふさわしい別建ての“自立と生き方”があるのではないか、と書いた。今回はその続きである。

厚労省のひきこもりに関する調査では、中高年者のひきこもりは61万人超となっている。そして、20歳から64歳までを対象にした5歳刻みで「ひきこもりの状態になった年齢」をみると、60~64歳が最も多く、断トツの1位である。60代に入った途端にひきこもりになるのである。

しかしこれを簡単に信用してはならない。同じ厚労省調べで「ひきこもりのなったきっかけ」を見ると「退職した」ことが理由の断トツ1位で、これに「人間関係がうまくいかなかった」「病気」などと続く。ちなみに、ひきこもりとは「自室や家からほとんど出ない。出ても趣味の用事や近所のコンビニ程度。これを6カ月以上続けること」だ。だいぶ緩い定義で深刻さに欠ける。

また退職がひきこもりの原因だということを、単純に退職して社会との接点を失ったと解釈するのは、それこそ単純な解釈にすぎるだろう。退職して、「これからはのんびりと」とひきこもる人もいるだろう。ひきこもりがちな友人に聞いたら、「テレビの前が私の毎日の定位置だ」というのやら、「出かけるとカネがかかる」と言ったものもいる。

そういうずぼらなひきこもりだけでなく、読書や創作、インターネット世界でつながるなど、在宅好みで精神面で積極的な“ひきこもりびと”もいるのではないか。昔から洋の東西に精神貴族の隠遁生活者がいる。令和の新時代にふさわしい新しい“ひきこもりびと”が生まれつつあるのではないか。(2019・12・18 山崎義雄)