ババン時評 国の“財布”はたまらない

コロナ不況の痛みをもろに受けるのは社会的弱者である。景気がある程度以上に落ち込めば、失業や売り上げ減少で個人や零細事業者などは、自力で生活や経営を持ちこたえられない。コロナで生活保護の申請が急増し、中小企業の倒産や家業の廃業も増えている。

自助努力で持ちこたえられないとなれば公助で救うしかない。生活の保障では、いい加減な生き方をしてきた連中の生活まで国が面倒を見なければいけないのか、とか、浮かれた商売や反社会的営業の恐れのある企業まで支援するのかといった非難や反論もあるが、倫理を問わずに生活と生存権を保証しなければならないのが憲法の定める国の務めである。

そのうえで考えると、経済の専門家ならずとも見えるのは、コロナ・ショックの突きつける弱者支援の課題、①生活の保障、②経営の支援、そして③財源の確保であろう。この3つの課題のそれぞれについて迅速・適切な対策と運用方法を考える必要があろう。

例えば、目下のコロナ対策における国民生活の保障でも、無条件での最低限の支給にとどまらず、自立・自助意思や計画に結びつく条件付の拡大支援も考えるべきではないか。同様に経営の支援においても、最低限の資金繰り支援にとどまらず、意思や計画のある者に対しては無返済の経営改善資金まで用意すべきではないか。それが経済の立て直しにもつながるだろう。

財源が不足なら国債・公債で借金するしかない。財政再建やら財政赤字やら将来世代へのツケ回しなどの心配を言っていられない。コロナ禍のもとにおける国の借金拡大は背に腹は代えられない緊急避難的手段となる。とはいえ、無制限・無条件の借金財政でいいわけがない。

ところがその財源を生み出す経済は中国コロナに破壊された。今次のコロナ不況は、戦後最悪の世界同時不況だと言われる。特に米国は、大量失業者の発生に見舞われるなどで厳しい状況だ。日本の場合も、恐らく戦後最悪の経済成長率に落ち込むと見られる。

しかし物は考えようである。このコロナ・ショックを奇禍?として、長く言われながら国が踏み切れなかった課題、すなわち富める者の負担を増やす税制措置を急いで財政立て直しを進め、中長期的にはトマ・ピケティ理論などが教える税制改革と貧富の格差是正に進むべきではないか。(2020・6・8 山崎義雄)

ババン時評 「バチ当たり」の中身

企業倒産、失業、生活苦とコロナ禍によって国民の生活が脅かされている中で、信じられない調査結果が出た。読売新聞がこの3~4月に実施した世論調査である。なんと自分の生活は「中流だ」とする回答が72%の高率だ。前回64年調査の74%とほぼ変わらないところが不思議である。

この調査でもうひとつわからなかったのは、「バチ当たり」についての意識である。自分勝手なことをすると、「バチ」が当たるということが「ある」とする回答が76%に上る。前回64年調査では「ある」が41%、「ない」40%が拮抗していたのである。拮抗するのが健全な判断だと思うが、バチが当たることがあると考える人がいきなり7割強になったのはなぜか。コロナと関係あるのかないのか。

先ごろ小池都知事が、「東京アラート宣言」に追い込まれる前に、夜の巷で遊ぶ若者たちがコロナ感染を増やしたとして悔しさを滲ませていた。アラート宣言後も、東京歌舞伎町の“接待酒場”などをやり玉に挙げている。あるいはそういうところに通う若者たちも「バチが当たる」例として多くの人々に見られているのだろうか。

だとすれば、この調査で「バチが当たる」ことが「ある」とした7割強の人たちには、自分の体験や自戒からの回答なのか、もっぱら他人を批判する立場からの回答なのか、あるいはどちらも含めて「バチが当たる」ことの「ある」ことを肯定し、あるいは戒める常識的な回答なのかを聞きたくなってくる。

情けない話だが、この調査では、「バチが当たる」ことが「ある」よ、と他人批判をした回答(が多い)ということになると、これにはコロナも関係ないとは言えないが、すでにコロナ以前に、ネット社会での無責任な誹謗中傷で人を死に追いやるほどに他罰的な傾向が強まっている時代背景がある。

前回調査では「ある」と「ない」の回答が4割前後でバランスしていた国民の意識が、今回7割強に跳ね上がった意味、それが己を省みる自戒ではなく、もっぱら他罰的な「バチ当たり」肯定論だとしたら、これこそ「バチ当たり」な了見違いではないか。この恐ろしさ、事の重大性はもう少し真剣に考えるべきだろう。(2020・6・3 山崎義雄)

ババン時評 たかが掛けマージャン?!

 「谷深ければ山高し」とは、最悪の事態を脱出して高く上昇するさまを表現する例えだが、逆もまた真なりで、「山高ければ谷深し」となるケースもある。得意の絶頂から谷底に転落した黒田弘務東京高検検事長のケースがそれだ。水に落ちた犬を打つつもりはないが、検事総長の椅子を目の前にしながら、ケチな掛けマージャンでしくじったのだから、聞いてハラが立つより情けなくなる話だ。

「谷深ければ―」と似たような意味で「高転びに転ぶ」という比喩もある。病みつきの掛けマージャンを止められずにマスコミの悪友と掛けマージャンを続けながら検事長の高みまで上り詰め、そこで「高転びに転ぶ」ハメに陥った。マージャンはまさにコロナ対策の「三密」状況でやるゲームだが、コロナ下で非難を浴びながら店に行くパチンコマニアとさほど変わらない程度の“悪さ”でもある。だが、検事長となるともはや許されない「たかが掛けマージャンされど掛けマージャン」になっていたわけだ。

司馬遼太郎は小説「峠」の後記で、「人はどう行動すれば美しいか、ということを考えるのが江戸の武士道倫理であろう。人はどう思考し行動すれば公益のためになるかということを考えるのが江戸期の儒教である。この二つが幕末人をつくりだしている」と書いている。そこからさらに、砕けた調子で「明治後のカッコワルイ日本人が、ときに自分のカッコワルサに自己嫌悪をもつとき、かつての同じ日本人がサムライというものをうみだしたことを考えてかろうじて自信を回復しようとした」と言っている。

司馬はこれを武士道倫理と言っているが、こうした倫理観は、ぜひ高級官僚に持ってもらいたい徳目ではないか。とりわけ検察官僚なら位が上がれば上がるほど身を律する強い自戒がなければならないだろう。そこが明らかに一般人と違う(べき)ところだ。

その高級検察官僚の足を引っ張ったのが志の低い大手紙の記者だ。そのうちバレるだろうが、村社会の習わしでまだ記者の名前が出てこない。こちらも新聞倫理に照らして厳しく罰せられるべきだ。

江戸時代は武士道倫理だけでなく一般庶民にも儒教の“おこぼれ”で「恥を知る」という倫理観があった。現代ではこの「恥を知る」倫理観も薄れてきたが、くだんの記者諸氏は武士道倫理とは言わず、このレベルでも反省してもらいたい。(2020・5・25 山崎義雄)

ババン時評 誇るべき無策のコロナ対策

これまで世界は、日本のコロナ対策を甘いと批判してきた。しかし日本は日本なりのコロナ対策を取ってきた。それはアヒルの水搔きと同じで、動きは鈍いが足は必至に水を搔いでいるのだ。しかしそのあまりに緩い対策は欧米の目にはきわめて見えにくく、無策にさえ見えるのだろう。

ところがその“アヒルの水搔き対策”が着実に効果を上げてきている。安倍首相が自慢するようにGセブン(主要7か国)で日本が最もよくコロナを制してきた。Gセブンの中で圧倒的に抑え込んでいる。その結果が、5月の緊急事態宣言の大幅解除につながったのだ。

今、欧米におけるコロナ対策の主流は、国による厳しい私権制限だ。罰則付きの外出禁止やロックダウン(都市封鎖)が行われている。たとえば仏英伊はいずれも罰則付きの外出原則禁止で、仏の場合は最大6か月の禁固刑もあるという厳しさだ。

それに比べて日本のコロナ対策は、世界に誇示できる具体的な「対策」がないまま、日常生活における密閉、密集、密接の「三密」を防ぐことを目標に掲げて、国民にひたすら「理解」と「協力」を求めてきたのである。いわば個人監視も私権制限もない“無策の策”である。世論調査などで、安倍首相の指揮が生ぬるいと国民にまで批判されるほどである。

その“甘さ”の中で、警察署の宴会でコロナが発生したり、営業停止要請を守らないパチンコ店にマニアが押し掛けたり、小さな事件では、無銭飲食で捕まった男が“控え票”を持っていてコロナでの「緊急小口融資」10万円をだまし取っていたことがバレたりもする。

しかし、世界の実情はこの比ではない。たとえばフランスでは、外出禁止令違反での罰金刑がすでに36万件にのぼるともいわれる。だがいくら外出禁止を厳しくしてもフランス人は勝手に出歩く。おそらくこれはフランス人に限らす欧米人に共通した傾向だろう。

かたや日本の場合は、心配されたゴールデンウイーク明けのコロナ患者数がさらに好転している。個人を監視しない、罰金や刑罰など考えもしない日本の“誇るべき無策”のコロナ対策が効果を上げた要因は、日本国民の善良な資質にあると言えよう。これは欧米と異なる歴史と文化がもたらした国民性の違いでもある。この「ほこり」をもって慢心することなく、必ず来るといわれる感染第2波に備えたいものだ。(2020・5・18 山崎義雄)

ババン時評 ひと山超えてどこへ行く

コロナ禍の先行きはまだまだ予断を許さないが、ようやく第1波のピークを越えたとして、安倍政府は39県に対して緊急事態宣言を解除した。同時に、政府の専門家会議が地域振興とともに新たな警戒態勢を要請する新提言を発表した。新型コロナ対策は新たな段階を迎えることになる。

提言では、コロナの再拡大を防ぐために、各都道府県がそれぞれの感染状況に応じて、①「特定警戒」、②「感染拡大注意」、③「感染観察」のいずれに当たるかを判断し、適切な対策を講じることを求める。「特定警戒」は東京都をはじめ今回解除されなかった8都道府県が該当する。

優等生の岩手県は「感染観察」にも当たらないと思うが、達曽知事の感想を聞きたいものだ。先ごろコロナ対策に取り組む著名な4県の知事が“テレビ参加”していたが、その一人の達曽知事の発言ぶりは控えめで、感染ゼロを自慢するでもなく、むしろゼロを守り切る重圧とストレスを感じているようにさえ見えた。余計なことだが、この4人に“露出願望”の強い小池都知事は呼ばれなかったようだ。

その小池都知事は、安倍首相の緊急事態宣言の緩和発表と専門家会議の提言に続いて即座に「東京アラート」なる新語とともに都の新しいコロナ対策原案を公表した。中身は、事業者に向けた休業解除の条件として、「感染者は1日20人未満」「感染経路不明者は50%未満」「週単位での感染減少」などクリアーすべき7つの条件をあげ、いったん休業解除したのち条件の1つでも悪化した場合は「東京アラート」を発令するというもの。

ついでに言えば、今回コロナにおける「三密」は、小池知事の造語を安倍首相が拝借したものだと思うが、古くは密教真言宗の教えに「三密」があり、行動、言葉、精神の尊さを説いているという。この「仏教三密」を借りたとすれば、「コロナ三密」は“造語”ならぬ“造意”とでもいうべきか。

ともあれ、専門家会議の尾身茂副座長は「コロナ対策の緩和で感染が再燃する可能性がある。感染拡大の防止と社会経済のバランスをとらなければならない」と述べている。それにはまだいたずらに人間の行動半径を拡大することなく、まずは地域社会中心の経済・生活の建て直しに、地域をあげて取り組むべきだろう。(2020・5・16 山崎義雄)

ババン時評 コロナ下のパチンコ野郎

コロナの蔓延する中で、休業要請を無視して営業するパチンコ店が繁盛?している。開店前からパチンコマニアが店頭に列をなす。自治体が要請する“三密”回避に協力して外出を控える市民の眼には異様なものに見えるのだが、彼らは何を考えているのだろう。

たとえば、①「自分のやりたいことをやるのは個人の自由だ」と思っているのか、②「悪いと思ってはいるがどうしてもやりたい」のか、あるいは③「何も考えずにやりたいことをやっている」だけなのか。おおよそそんなところだろう。

店頭でインタビューのマイクを向けると、①の類の回答をするケースが目立つようだ。さらに②も③も含めて、カネを欲しいと思ってパチンコをやっている者が少なくないだろう。その“換金”だが、パチンコ店が客の出玉をすぐカネに換えてやれば、刑法の賭博罪や風俗営業法に触れることになる。

そこで「パチンコ店」の特定の景品に換えて近くの「景品交換所」に持ち込むと、ここで景品を買い上げてくれる。その後、景品交換所の買い上げた景品を「集荷業者」が引き取って還流させる。これが犯罪を免れるための「三店方式」と呼ばれるパチンコ業界の営業形態で、何十年か前にこれを考案したのが元警察官だったという。

しかしパチンコ景品の換金を厳しく取り締まるとなれば、堂々と換金できるカジノ賭博との整合性が取れない。それは早くから分かっていたことで、数年前にカジノ事業の導入で国の検討を始めた当初、パチンコ景品の換金を合法化しようという意見が議員団の中で強かった。パチンコ換金の問題はカジノ賭博の問題でもあり、警察も議員もウラ稼業と無縁ではないということでもある。

そして何より大きな問題は、その官製賭博にはまる人間を法で縛ろうというところにある。言ってみればカジノ・パチンコ賭博罪は、穴を掘っておいて落ちた奴を罰しようというようなものである。これは人権に関わる問題である。したがって現実の問題で言えば、コロナ下のパチンコ規制では、法的な規制を考える前に、パチンコ店の前に並ぶマニア諸君に自制心を求めるしかないということになる。その自制心は、道徳的・倫理的な個人の資質に関わる問題であるということになる。残念ながら彼らの不心得を悟らせる即効薬・解決策はないということになる。(2020・5・10 山崎義雄)

ババン時評 隠れ蓑着る「憲法9条」

安部首相は焦りを感じているだろうが、憲法改正の動きはにぶい。安倍首相の本心・本音は間違いなく9条2項の「戦争放棄」条項の削除である。すなわち石破茂元幹事長の主張と同じだ。しかし「戦争放棄」条項の削除は、公明党と決別しない限り言い出せない。したがって平和維持の2項はそのままに、新たな3項を設けて自衛隊の公認を図る。安倍首相としては、そこまで譲歩しても自衛隊を認知して、“明るい場所”に立たせたいということなのだろう。

その頼りの公明党北側一雄中央幹事会長は、昨年3月はじめの記者会見で、「自民党が提案し〈中略〉憲法審査会で議論しましょう、となれば党としても勉強しなければならない」と述べ、「まだ先は長い。すぐにどうこうという話にはならない」と語って1年になる。実にのんびりしたもので、来年の総裁任期中に改正憲法施行まで持っていきたいと願う安倍首相としては気が気ではないだろう。

さらに、自民党内にも2項の削除論がくすぶっている。世界有数の能力を持つ自衛隊が戦力ではないというのは詭弁だとする声が強まっている。たしかに、自衛隊の持っている世界に誇る「戦う力」、これから導入する「イージスアショア」も「F35Bステルス戦闘機」も「戦力」ではなく自衛のための「実力」だとする政府の見解は奇異に感じられる。

遡れば、戦後、現憲法の草創に携わった首相吉田茂憲法解釈で迷走を繰り返した。おもしろいのは当時、共産党野坂参三議員が「自衛のための正しい戦争」論を展開し、これに吉田が「正当防衛権を認めると戦争を誘発する」と反論したことだ(原彬久著「吉田茂」)。それ以来、攻守ところを変えて70年以上も正当防衛、自衛権を巡る与野党の9条解釈が迷走してきたのである。2項を残すと将来もこの迷走を続けることになる。そろそろすっきりと決着をつけるべきではないか。

平和維持の9条2項をそのままにして自衛隊を認知させようというのは、9条2項を隠れ蓑にして、「戦力保持」容認の本心を隠して自衛隊を認めさせるに等しい。国民にとってすっきり分かる本音の改憲案を示すべきだ。安倍政権内での半端な改憲を急ぐ必要もなく、そこまで急がなくても事実上自衛隊は容認されている。まして存亡に関わる恐れなどない。まっとうな条文案を示してゆっくりと国民の理解と判断を待つべきではないか。(2020・5・9 山崎義雄)