ババン時評 生かされる間、生きる

一向に衰える気配を見せない新型コロナウイルスの禍で、不条理な「死」というものについて、身近に考えさせられる今日この頃である。そんな折りに、よく手書きで長文の手紙をくれる先輩のYさんから、『最近「死」ということを考えるようになりました』という便りをいただいた。90歳を過ぎ、体力の衰えとともに残り時間を数えるようになったのだと言う。

Yさんが、人間の死に直面したのは7歳の時、大好きな祖母の死に出会ったのが最初だった。祖母は突然倒れたまま、呼んでも答えてくれず、一週間で亡くなった。親類に宗教家がおり、それまで「奇跡的に助けた人のこと」など自慢していたので、祖母を助けてくれと必死に頼んだが、宗教家は「もうだいぶ遠くまで往ってしまって、呼んでも聞こえなくなっているから駄目だ」と言われた。それから4年後、今度は父と叔父が、畑の中で米軍機の爆撃によって亡くなった。

Yさんは考える。人間の死で一番多いのは病気による死かもしれないが、それだけではなく、いわゆる不慮の「死」も少なくない。例えば運動選手などで、肉体を極限まで鍛えあげているのに、一般人の平均に満たない年齢で死を迎えたりする。Yさんの弟は丈夫で医者などとは縁がなかった。それなのに、電話で元気に話をして、「これから友人の畑にイモ掘りに行く」と楽しそうだった。が、数時間後に亡くなった。知らせを受けて交通事故が頭をよぎったが、死因は「心不全」だった。

そしてYさんが改めて死を考える契機となったのは、一昨年の心筋梗塞で倒れた自分自身の経験である。Yさんはその時、「死にかけた」と言う。「臨死体験」と言ってもいいだろう。自転車に乗っていて急に胸苦しくなり、貧血状態になりかけて自転車を降りようとした時に失神した。気がついたらYさんは地面に倒れていて、体の上に自転車が乗っていた。その間は数10秒か1分程度だったろう。救急車で運んでもらい、心筋梗塞だったが緊急手術で生還した。

Yさんは考える。「死」と「生」の間は紙一重。その時「寿命」が尽きていたら「彼岸」へと旅立つことになっていただろう。もう一つ「運命」という言葉がある。「運命」は「寿命」が尽きる時、彼岸へ旅立つその時の「様子」を言うのではないか。誰が「運命」を与え、「寿命」が尽きたことを知らせるのか、それは誰も分からない。人間世界では都合よく「神の啓示」とか「神示」などと言う。

そしてYさんは、『いまは、「寿命」の尽きるまでと思い、大事に一日一日を生きている』と手紙を結んでいる。大先輩の考察に蛇足だが、「寿命」を下命し、あの世に至る「運命」の筋書きを決めるものが誰か知らないが、神でも天でもいい、人智の及ばざる力が働くとしたら、それによって「生かされている間、生きる」のが命ではないだろうか。(2021・5・25 山崎義雄)

ババン時評 抗えぬものへの対処法

人生において、人間社会を生きていく上において、抗(あらが)い難いこと、甘んじて受容するしかないことは誰にでも起きる。強者と弱者で「勝率」に相当な開きはあるだろうが、強者といえども百戦全勝とはいかない。奢れるものは久しからず、「盛者必衰」である。その、抗いがたく避けがたいことの最たるものが「生者必衰」であり、生あるものは必ず死ぬということであろう。ところがこの“ことわり”に真っ向から挑戦するのが「シンギュラリティ」の理論である。

未来学者レイ・カーツワイルさんの説く、人工知能(AI)の加速度的な発達が「シンギュラリティ」(技術的特異点)を超えると、病気の克服や人体のサイボーグ化が進み、脳のシミュレーションにより「私の保存」も可能になるなど、AIの能力と医学のレベルが人間の老いや病気の進行を追い越すことによって、人間は不老不死になるという仮説である。

これをカーツワイルさんは「仮説」などとは思わず、2045年頃にそのシンギュラリティを迎えることになると確信する。そこで1948年生まれのカーツワイルさんは、その時まで生き延びて、永遠の命を獲得するために、あらゆるビタミン剤の多用などで涙ぐましい努力をしているとか、万一、それ以前に死んだ場合は、遺体を米国の民間機関「アルコー延命財団」で冷凍保存させておいて、シンギュラリティを迎えた時、生き返るための医術を受ける予定だと言われる。

いま売れている一書に、ジェフリー・S・ローゼンタール著、『それはあくまで偶然です』(邦訳、早川書房)がある。同書は、世の中の出来事はほとんど偶然による所産だという。そして同書は、「自分にはコントロールできないランダムな運を静穏に受け入れる力と、修正できる運を変える知識と、両者の違いを知る知恵をお与えください」―という。これは著者ローゼンタールさんの「願い」でもあるというが、万人が願う人生の要諦ではないだろうか。

コントロールできない運、つまり「変えられない運命」と、修正できる運、つまり「変えられる運命」、そしてその「両者の違いを知る知恵、判別する知恵」があれば、変えられない運命を変えようともがいて傷ついたり、変えられる運命を変えようともせず“負け犬”になったり、2つの運命の違いを知らずに対処を誤って、あたら人生を棒に振ったりしなくて済むのではないか。

シンギュラリティの真偽はさて置き、変えられる運命なら「運命」と諦めずに果敢に挑戦すべきだが、変えられない運命なら「受容」するしかない。特にその「両者の違いを知る知恵」がない場合は、余計な疑問をもたずに自らの人生を生きればいい。できれば肯定的に、人生こんなもんだろうとか、これでいいのだとか、まんざらでもなかったね、と人生おさらばの時に思えたら幸せではないか。つまりは、抗いがたいことへの対処法は抗わないことだろう。(2021・5・20 山崎義雄)

ババン時評 外国人が日本人になるまで

日本の将来にとって一番の問題は、少子化による人口減少であり、日本が“自力”で人口を増やせないとすれば、有効な解決策は移民の受け入れしか方法がないということになりそうだ。そしてその人たちにどのように日本社会や文化に溶け込んでもらうかということが問題となろう。先に、「移民受入れ以外に未来なし」と書いた。その続きがこの小論である。

まず、1つの新聞記事を紹介したい。読んだ人も多いだろうが、『名はマリアンヌ「私は誰?」』という記事が読売に載った(4・11)。スウェーデン人の母と米国人の父を持ち、日本人の養父母に育てられたマリアンヌ・ウイルソン黒田さんは今71歳。日本に根を張って生きている。記事は『あれから 戦後日本「碧眼の孤児」』として報じられたもの。

米国人で軍属だった父は、マリアンヌさんが生まれる前に帰国。母は出産後わずか1年で死去。マリアンヌさんは日本人の養父母に預けられ大事に育てられる。1956年、6歳の時、母の母国スウェーデンがマリアンヌさんの「引き渡し」を求める訴訟を起こした。「マリアンヌちゃん裁判」と話題になった。一審の帰国判決に養父母が控訴したが2審判決も変わらなかった。

マリアンヌさんは準備期間を与えられ、横浜のインターナショナルスクールで語学を学び、大使館関係者の家でスウェーデン生活様式を身につけた上で、20歳の時、スウェーデンに渡る。現地の大学を出て就職するが、養母の病気で25歳の時、日本に戻る。

後年、米国に帰った父が、米国の上院議員に母子の米国籍取得を訴えた手紙が発見され、父が妻子と一緒に米国で暮らそうと議会に掛け合っていたことを知った。養母が死の間際に、米国の父から日本の母にあてた手紙を、密かに焼き捨てたと涙ながらに謝ったこととつながった。その後、ルーツ探しに取り組んだマリアンヌさんは、祖父の母と祖母の母、つまり2人の曽祖母の夫がいずれも日本人だったことを寺の資料などで突き止めた。

マリアンヌさんも日本人と温かい家庭を持ち、日本とスウェーデンの国籍を持つ。今、マリアンヌさんは英語講師をしながら地元区役所の外国人生活相談員をしているという。そして、相談相手によっては、日本に住みたかったら日本語と日本文化を学習しなさいとアドバイスする。

先に引用したフランスの歴史人口学者エマニュアル・トッドさんは、移民の第一世代はダメでも、2代目、3代目で日本語・日本文化に同化させる息の長い同化主義をとるべきだと言っている。そして言う。人口危機は数十年の潜伏期を経て発現し、一気に激化する。出生率の極めて低い状態が何十年も続く日本は今や危機に瀕している。移民を排除して「日本人どうし」に固執する先には衰退しかないと断言する。外国人が日本人になるまで、穏やかな日本化を提唱するトッドさんの声を頂門の一針として聞くべきではないか。(2021・5・15 山崎義雄)

ババン時評 マルクスの亡霊が出た

今、だいぶ売れている一書に、斎藤幸平著『人新世の「資本論」』(講談社新書)がある。表紙には当代きっての論客達の賛辞が並ぶ。本書のミソは、晩年のマルクスがたどり着いた(そして未公開だった)「脱成長コミュニズム」構想だ。それは、「協同的富」を共同で生産し管理するという「コモン」の思想で、資本主義における個人主義的な生産様式から脱却し、生産手段も、経済も、地球環境も(人民が?)共同管理すべきだという主張だ。

先月の『ババン時評 資本主義から「人新生」へ』でも、本書の内容から“肯定的”に少し引用したが、今回は、改めて多少の疑問を呈してみたい。本書は、現代は資本主義経済が地球を破壊する「人新世」=環境危機の時代であり、この気候変動に歯止めをかけるためには、資本主義の際限なき利潤追求を止めなければならないという。ここでは資本主義を犯人と決めつけているが、地球温暖化ガスを最高に排出している中国など共産圏経済の責任が除外されている。

本書は「はじめに」、レジ袋の削減にエコバックを使うとかペットボトル飲料を買わずマイボトルを持ち歩くなどの環境配慮は資本主義の欺瞞であり、国連、各国、大企業が推進する「SDGs=持続可能な開発目標」は資本主義のアリバイ作りであり、それで気候変動は止められないという。これは、資本主義による“排泄物”の処理を一般市民に肩代わりさせているとでも言いたげな、挑戦的な問題提起である。

一方で本書は、『我々が慣れ切った資本主義の生活を捨てて「脱成長コミュニズム」への大転換を図ることは容易ではない。それは資本主義を牛耳る1%の超富裕層に99%の人達が立ち向かう戦いでもある』と言う。しかしこの、富の偏在はまさに資本主義というより人類が直面し解決を迫られている大問題だ。『「脱成長コミュニズム」への大転換が容易でない』話とは別だろう。

しかも肝心の「脱成長コミュニズム」の実現戦略となると、『ハーヴァード大学政治学者エリカ・チェノウェスらの研究によると「3・5%」の人々が非暴力的な方法で、本気で立ち上がると、社会が大きく変わる。フィリピンのマルコス独裁を打倒した「ピープルパワー革命」など多くの事例』があるという。お寒い限りで、打つ手なしと言っているに等しい。「はじめに」、レジ袋の削減や「SDGs=持続可能な開発目標」は資本主義の欺瞞だと威勢よく飛び出しただけに、竜頭蛇尾の感はまぬがれない。

そして本書は、『資本の専制から、この地球という唯一の故郷を守ることができたなら、その時こそ肯定的にその新しい時代を「人新世」と呼べるだろう』と結論づけている。一見もっともらしい理屈だが、冒頭の「資本の専制」は「資本主義の横暴と全体主義専制」とでも言い換えるべきだろう。いずれにしても今どき、肯定的な?「人新世」実現に向かう道程にマルクスの亡霊が出てくる意味はないだろう。(2021・5・10 山崎義雄)

ババン時評 移民受入れ以外に未来なし

早くから問題が見えていたのに、何ら有効な手を打たずにいた、というより打てなかったのが、少子高齢化による人口減と労働力不足の解消策だ。フランスの歴史・人口学者のエマニュアル・トッドさんは、30年以上も日本に向けて事の重大性を警告してきたが、受け入れられなかったと嘆いている(鶴原哲也 編『自由の限界』中公新書クラレ)。

もちろん日本が全くの無為無策で長い年月を過ごしたというわけではない。日本は日本なりに、作業の自動化、ロボット化、AI化、それに高齢者や未就労女性の労働力活用策、そして輸入労働力の受け入れなど、それなりに労働力不足の解消策に取り組んできたが、問題は解消しなかった。

安倍前首相は2018年の国会で、移入労働力について、あくまで「労働力」を受け入れるのであり、「一定規模の外国人と家族を、期限を設けることなく受け入れて国家を維持しようという移民政策は採らない」と説明した。しかし「労働力」だけを受け入れることは不可能だ。現実には、「労働力」を持った「人間」を招じ入れるのである。

前出のトッドさんは、人口危機は数十年の潜伏期をへて発現し、一気に激化する。出生率の低下が何十年も続く日本は今や危機に瀕している、と警告する。そして日本のために3つの提言をする。その要点は、①外国人労働者はいずれ国に帰ると考えず、常に移住者になると覚悟すること。②外国人労働者の出身国を多元化すること。③多文化主義は取らないこと―。

トッドさんの提言①は、前出の安倍前首相の(ような)考え方への警告である。②では、たとえば中国の場合は国外同胞との関係を維持する政策をとるだけに、日中戦争の歴史も絡んで厄介になる。韓国人は、日本に支配された歴史の遺恨がありやはり難しい。複雑な因縁のないベトナム、フィリピン、インドネシアを優先するのがいいと言う。③では、第一世代はダメでも、移民の2代目、3代目で日本語・日本文化に同化させる息の長い同化主義をとるべきだと言う。

2年前に「ババン時評 外人労働力の裏表」を書いた。そこで、外国人労働力の受け入れは『ややこしい国際問題になる恐れがある。場合によっては韓国との徴用工問題の“変形”ともなりかねない。「労働力」の受け入れなどと安易に考えずに、「外人労働力」の扱いは「日本人労働力」以上に難しい問題だ』と書いた。トッドさんはその代表に中国、韓国を挙げる。

何よりも移入労働力、そして移民受け入れは、人手の補充策問題ではなく、民族の混交という国の根幹を揺るがす問題だ。それでも移民政策を取らない限り日本の将来がないとするなら、トッドさんの明快な提言を本気で受け止め、受け入れる他民族への息の長い同化政策を含めて、政策化し具体化すべきではないか。(2021・5・5 山崎義雄)

ババン時評 「正直、困惑」した文大統領

慰安婦らが起こした裁判の思いがけない判決に、文在虎大統領が「正直、困惑している」と語った。今年に入って、韓国ソウル中央地裁で日本を相手どって元慰安婦が起こした2つの賠償請求裁判の判決がそれぞれ1月と2月に出た。ほぼ同じ訴訟内容で、しかも同じ韓国ソウル中央地裁において、1月の判決では慰安婦側の勝訴、4月の判決では敗訴と真逆の判決になった。

そもそも、慰安婦らがこのような訴訟を起こすに至った原因は、文大統領が、2015年の日韓合意を踏みにじって慰安婦問題を蒸し返したことにある。問題に再び火をつけて煽った張本人の文氏が「正直、困惑」したのは、1月判決を受けての感想だから驚く。文氏としては、大統領任期も残り1年ほどとなる中で、日韓関係がますます悪化し、国内での大統領人気も落ち目になった焦りがあり、ことを大きくしたくない心境に“変節”したのであろう。

そこへ真逆の4月判決だから文氏としてはまさに股裂きに遭ったような思いだろう。おまけに4月判決では、日本の資金提供で設立した慰安婦支援基金についても、先の日韓合意に基づいて「日本政府が行った元慰安婦の権利を救済する手段だ」と肯定した。その基金を解散させた文大統領としては「正直、困惑」するしかなかろう。

さらに、裁判にかかった訴訟費用に充てるために日本政府の資産を差し押さえようという慰安婦側の要求にも4月判決は「ノー」をつきつけ、その理由として「ウィーン条約など国際法に違反する結果を招きかねない」との判断を示し、国際法重視の見解を示した。これも国際法より韓国大審院最高裁)判決を上位に置いた文大統領としては「正直、困惑」するしかない。

問題は今後、日中外交の現場で慰安婦問題がどう進展するかだが、文氏に何かを期待しても無理だろう。以前、このババン時評で「韓国のトリセツはあるか」(2019・12)として、(韓国が歴史問題にこだわっている限り)トリセツはないと書いた。韓国でも今回の4月判決に対しては、例えば革新系「ハンギョレ新聞」などは「歴史を無視した判決」だと社報で論じたという。また先月3月の「ババン時評 文在虎相手にせず」では、「文大統領にものを言ってもはじまらない。韓国への言い分は、世界に向けて、次いで来年の大統領選に臨む韓国民に向けて発信すべきだ」と書いた。

慰安婦問題での4月判決は光明である。新政権が保守系になればもちろんだが、革新系政権でも今回の4月判決を無視することはできまい。慰安婦問題は大きく前進する期待が持てる。その先に徴用工問題があり、歴史認識問題がある。韓国との付き合いは厄介だが、「正直、困惑」するばかりの文政権よりは次期政権に(多少の?)期待を持てるのではないか。(2021・5・1 山崎義雄)

ババン時評 資本主義から「人新世」へ

いま、地球と人類の歴史の新しい「時代区分」として「人新世」(ひとしんせい、あるいはじんしんせい)という考え方が注目されている。これまでの地球の地質的な時代区分は、地質や気候や生物相など自然の大変動期で区分されてきたが、現代は、自然破壊など人間の側に原因のある大変動時代だというのが「人新世」の認識である。

この地球が誕生したのは46億年前で、生物が出現したのが、およそ5億4千万年前だといわれる。その生物誕生以後が、学問上の「地質時代」として、古生代中生代新生代、そしておよそ1万年前から現代にいたるまでの「完新世」と区分されている。

2年ほど前に刊行されたクリストフ・ボヌイユ、ジャン=バティスト・フレソズ著『人新世とは何か〈地球と人類の時代〉の思想史』は、「人間」の責任というが、環境破壊をもたらしたのは先進国の責任であり、度重なる世界戦争など大きな要因があると指摘する。

そして、資源を無駄遣いする大衆の欲望に責任を拡散することに異を唱える。そこから新たな時代区分は「人新世」に限らず、化石燃料で環境を破壊した「熱新世」でも、愚かな人間による「無知新世」でも、資本主義がもたらした「資本新世」でもいいではないかと提案する。

そんな折に、「マルクスへ還れ」という意表を突く提言の書が出た。斎藤幸平著『人新世の「資本論」』(講談社新書)である。本書に言う「マルクス」は古いマルクスではなく、新たなマルクス文献の発掘と分析を基にした新たなマルクス解釋であり、本書はその「マルクス新思想に基づく21世紀の新資本論」である。

すなわち、現代は資本主義経済が地球を破壊する「人新世」=環境危機の時代であり、その解決策が、晩期マルクスがたどり着いた、「脱成長コミュニズム」構想だという。それは、資本主義の個人主義的な生産から、「協同的富」を共同で管理する「コモン」の思想で、生産手段も、経済も、地球環境も(人民が?)共同管理するというのが本書の主張である。

たしかに資本主義は、ソ連の崩壊で共産主義が退場した(ように見えた)時から、ライバルとの緊張感とバランス感覚を失って、人・モノ・カネのあらゆる資源を貨幣に変える貪欲な本性をむき出しにしたきらいがある。すでに、資本主義も共産主義も単独では立ち行かないことを歴史が証明している。そして今、「資本主義」と「共産主義」に代わる、目的と手段と成果の「共有主義」を、その新概念による「人新世」を目指すべきではないかという課題が提示されている。(2021・4・25 山崎義雄)