ババン時評 顔と心の経年変化

 

いかんともしがたい高齢化社会である。朝日新聞(10・30)の読者欄に、「ジタバタして人生全うしたい」という87歳翁の「声」があった。「なるようにしかならない。と言いながら結構ジタバタしている」「それでいいのかも」と言う。笑ってしまったが、見事な覚悟とも思える。

生涯を通じて人間の顔と心は変化する。普通の人間関係はお互いの顔を見るところから始まる。相手に対して「良い人だ、好きな人だ」などと判断するのは脳細胞の「感情の座」であり、反対に「嫌な人だ」などと悪印象をもって判断するのは「論理の座」だとされる。だから人は多かれ少なかれ他人に自分の顔色を読まれないように腐心する。

人格は英語でパーソナリティだが、語源のペルソナには仮面の意味があるという。たしかに、人にもよるが、仕事や社会的地位に応じて仮面をつけたように振舞う。度がすぎると嫌味な人間になったり、仮面がはがれて醜態を演じることもある。

ところが、老年期は、個人差はあっても脳の老化が進む。そこでサミエル・ウルマン流に「青春とは年齢ではない。心の有り様を言うのだ」とがんばるのもいいが、いずれは、その頑張りもきかなくなる。先の87歳翁は、「ぼけてもおらず酒もうまい」「性格を除き悪い所はみつからない」と言う。同感だ。

ならば、もしこれまで仮面をつけたり肩ひじ張って生きてきたような人は、その仮面をそっとはずして、肩の力も抜いて、しわを刻んだ顔面に人生で収穫したもろもろの雰囲気を漂わせて生きるのもいいのではないか。(2018・11・2 同じテーマの拡大版エッセイが山崎義雄「ババンG」にあり)