ババン時評 「ヘタレ」と「ポピュリズム」

 

一見、関係のなさそうな「ヘタレ」と「ポピュリズム」にいったいどんな関係があるのか。朝日新聞(12月2日)に、『「分を弁えろ」という論理』と題する「対談記事」が載った。記事中に、『ポピュリズム招く「ヘタレ」根性』という中見出しがあった。

記事の内容は、沖縄基地問題をめぐる政府の民意無視をはじめ、昨今の、いっけんばらばらないくつかの事象の底流に、「分を弁えろ」とか国家の意向を「甘受すべし」といった意識があるとする朝日らしい問題提起だ。語り手は杉田敦法政大教授と長谷川恭男早稲田大教授だが、杉田教授は朝日的な主張、長谷川教授はニュートラルなスタンスである。

しかし、その内容についてあれこれ書きたいわけではない。興味は、「ヘタレ根性」説である。長谷川教授は、『強力なリーダーが引っ張ってくれる組織体のほうがよほど居心地がいい。そんな「ヘタレ」根性がポピュリズムを引き寄せている』と言う。

さて、「ヘタレ」とはどういう意味か。「屁たれ」からきたとする説もある。だとするとこれは「糞ったれ」と同類語で、軽蔑、蔑視、悪口、負け惜しみなどの意思ないし気分を表現する俗語ということになる。しかしここは、俗に「へたる」とか「へたり」などというように、野菜などが「弱る」とか「ダメになったもの」、転じて「弱った人間」とか「情けない人間」をあらわす俗語と解釈するのがいいのではないか。

次いで、「ポピュリズム」は、一般大衆の願望や不安を利用して政治を行うことから、「大衆迎合主義」などと訳される。その一方で、無知蒙昧とまでは言わないものの一般大衆の自主性や判断力に疑いをもつ視点から「衆愚政治」などとも訳される。

したがって、長谷川教授の言う『ポピュリズム招く「ヘタレ」根性』を意訳ならぬ違訳させてもらえば、ある政治目的を達成するために大衆を扇動し利用するという「ポピュリズム政治」を招くのは、自主性も判断力ももたず時流に流される「ヘタレ根性」の一般大衆だということになる。“大衆蔑視”の臭いは気になるが、たしかに今、そのような事例が世界に蔓延しつつある。(2018・12・4 山崎義雄)