ババン時評 カネが欲しいか要らないか

 

「貧乏するにも程がある」。これは、10年以上も前に出版された本の題名である(長山靖生著、光文社刊)。「金が欲しいか要らないか」というテーマで駄文を書き始めたところで、2008年2月に自分が書いたこの本の“書感”が出てきた。書感の所々は、本の内容か自分の感想か判然しないのだが、適当に引用しながら駄文をつづる。

本のサブタイトルは-芸術とお金の“不幸”な関係-とあり、あまりロマンチックでない芸術家の貧乏を考察している。自称で画家・評論家を名乗る私も、人生の分岐点は、画家や音楽家や文学などを目指したところから、限りなくお金とは縁遠い道を歩むことになるという自説を立てている。もちろん一握りの成功者や親の遺産を継いだ人間を除けば―である。

とはいえ、創作世界に身を沈めた弱者?たちも、カネが欲しいかと聞かれれば切実に欲しいと思うはずだ。カネなど要らないという人間がいたとしたら、やせ我慢か自己欺瞞だ。正直に自己観照すれば、心底カネが欲しいと思いながら生きている「情けない」「だらしない」「恥ずかしい」「見せたくない自分」がいる。「本当の自分=あるがままの自分」を見つめることは、誰にとってもつらいことだ。「貧乏―」の本で取り上げている過去の著名な文学者も下世話な生活面ではかなり情けない。石川啄木などはその代表格だ。

しかしそういう己ではあるが、自ら人生の分岐点でカネをつかむ道と決別したのだから、なんとか食えればいいと諦めて、自由な身や創作の喜びを味わうしかない。本では、「文学には敗北がよく似合う」などと見極めている。そして、自らの目と精神は自ら作り上げるより獲得する道はない。「自分らしさ」を見つめる以外に、本当の自分を所有する方法はないということだ。

要するに、カネで精神的な自由や創作の喜びを贖うことはできない。だとすれば、すべからくカネのない人は開き直って? 食えないほどの「赤貧」では困るが、「程の良い貧乏」に甘んじて、昨今の「貧富の格差」や「勝ち組」「負け組」基準にこだわらない自分流の生き方をするよりない―という変哲もない結論に落ち着くことになる。(2019・5・12 山崎義雄)