ババン時評 めでたくない?ピンピンコロリ

 

人生の締めくくりをどう迎えるかという「終活」本が書店に並ぶ。しかし、ノウハウ通りに準備して人生をおさらばするのは容易ではなかろう。第一、どのように死の瞬間を迎えるか、それが分からない。長いこと病院で、あるいは自宅で寝ついていたというなら、そこで死を迎えるだろうことは想定できるが、外出できる大方の人は、どんな死に方をするか見当もつかない。

年寄りはたいてい、最後はピンピンコロリと死にたいと願うが、「佐藤葬祭」の佐藤信顕社長は、ピンピンコロリが必ずしも幸せとは言えないという。実際にポックリ亡くなるとけっこう大変なことになる。法律的に、医者に掛かっていないで突然死すると「変死」という扱いになる。自宅で望み通りの天寿全うでも「変死」である。そして、死亡診断をするのは「監察医」というお医者さんで、そのお医者さんが来る前に警察の人が来て実況検分をする。

警察の検分は、警察官にもよるだろうが、生前に転んでアザでも作っていたら、どうしてアザができたか、家族仲は揉めていなかったかなどと聞かれて家族が怒り出すこともあるという。警察の検分が終わると、監察医の先生が来て、現場状況を保存するために裸のまま寝かされている遺体を検分し、その場で死亡診断書を書いてくれるか、不審な点があれば解剖に回される。

17世紀ヨーロッパに、「人生の10段階説」があったという。古い本だが「老人の歴史」(木下康仁訳、東洋書林)によると、若い時代は省略して、60歳=身を引く、70歳=魂を守る、80歳=世の愚か者となる、90歳=子供にからかわれる、100歳=神の恵みを受ける、という“段取り”だ。

今では、60代はおろか70になっても、働き口があれば働かなければならない。60歳で身を引いて70歳で心の安寧を得るなどという贅沢はとても望めない。さらに80歳で耄碌し、90歳で子供返りするとは実にひどい話ではないか。しかしこれは、100歳を超えて平穏な「神の恵みを受ける」ために必要な過程なのかもしれない。

そう考えると、長生きをしたいならできもしないピンピンコロリを願うより、できるだけ心の憂いを払い、適当に耄碌し、子供返りをし、体力・活力の低下を受け入れながら適度に「干物化」して天寿を全うした方がいいのではないだろうか。(2019・7・19 山崎義雄)