ババン時評 謝ってばかりもいられない

 

戦後74年目となる今年の戦没者慰霊祭で、令和の新天皇が、先の大戦への「深い反省」に言及した。これは、先帝のお言葉の内容をほぼ踏襲されたものだという。ちなみに昭和天皇が初めて「戦争謝罪」したのは昭和49年、韓国の全斗煥大統領が来日した際の宮中晩餐会での「両国の間に不幸な過去が存したことは誠に遺憾であり、再び繰り返されてはならない」との勅語

たまたま先ごろ公表された新資料で、昭和天皇が、東京裁判の折りに、痛切な反省と悔恨の念を表明しようとしたが、時の吉田茂首相に反対されて断念した経緯が明らかにされた。しかしこのことは既に知られていた。たとえば原彬久著「吉田茂岩波新書)にも詳しい。天皇の草稿は、『「朕、即位以来20有余年―」で始まり、戦争により国民に塗炭の苦しみを与えたことに「憂心灼(や)クガ如シ。朕ノ不徳ナル、深ク天ニ愧(は)ズ」』と自らを激しく責める内容だった。

同書によると、東京裁判当時、マッカーサーは、東条以下天皇の手足(しゅそく)が有罪となったことで、天皇が「退位」することを恐れた。退位どころか自殺さえ心配したという。吉田は、判決前2週間足らずの間に、3回マッカーサーと会談し、その要望を受けて天皇への説得工作を続け、やっと説得に成功して東京判決の前日夕刻、口頭でマッカーサーに報告したという。天皇の「退位」を阻止したのはそれぞれの立場で天皇を崇敬するマッカーサーと吉田首相だった。

ついでに言えば、最初に謝罪した首相は田中角栄で、1972年に初訪中した折の挨拶だが、歴代首相の謝罪の中で特に有名なのは、1995年の自社さ連合時代の村山富市首相による“村山談話”だ。それは、わが国の「侵略行為や植民地支配」でアジアの国々の多くの人々に「耐え難い苦しみと悲しみ」をもたらし、さらには「従軍慰安婦問題は、女性の名誉と尊厳を深く傷つけた」ことまで、「深い反省とお詫びの気持ち」を述べた長文の謝罪である。

細谷雄一著「歴史認識とは何か」(新潮選書)では、村山談話の基となる衆議院決議の採択は、賛成230名に対して、欠席者が与党の70名を含めて与野党合わせて241名ほどだったという。さらにイギリスの歴史家E・H・カーの、歴史とは「現在と過去との間の尽きることを知らぬ対話」だという言葉も引いて、村山談話は「共通の歴史認識を作りだすことの難しさを端的に示している」と言う。教訓は、歴史上の事柄では簡単に謝ってはならないということか。(2019・8・22 山崎義雄)