ババン時評 面白おかしく生きる老後を

 

先に「敬老の日のうそ寒さ」という一文を書いたが、また続きのような話を書く。今年も敬老の日が巡ってきたが、敬老の日はすでに形骸化している。敬老の精神などどこかへ消えてしまった。中には、渋谷区の高齢者の場合は、敬老の日にお祝い金1万円をいただけるとか、公の祝いをする自治体もあるが、肝心の身内から敬老の日にそれらしい対応やプレゼントを受けた高齢者がどれだけいただろうか。しかし、プレゼントをもらわなくても、体にガタがきてもボケても、高齢化社会の高齢者はしぶとく生きていくしかない。

数年前、禅寺の施餓鬼会の講話で聴いた老和尚の話を思い出した。老師の妻はボケた後も廊下やトイレの電気を消すことだけは忘れなかった。そのせいで夜中のトイレに一人で起きて暗い廊下でよく転んだ。和尚は、老妻の手の届かない高さまでスイッチの位置を付け直した。そうしたら老妻は、ずっと電気をつけるならもったいないから電灯を小さいのにしてくれと言ったという。

そして和尚は、老妻に説教されて、ボケているのかいないのかわからなくなった。人間はボケても利口そうなことを言うと笑った。そして、本当の人間の脳はバカだと言う。かく言う自分も、座禅を組んでいても雑念を払うことは難しい。色欲、食欲、物欲から逃れきれない。これも人間の脳がバカなせいだ。人間はどうしようもない。やっとそれが分かってきた、と言うのである。

そこで和尚は、以前は老妻を厳しく叱ってきたが、人生の終盤にきて、今はボケた老妻のやることをすべて許して寄り添えるようになった。と言うのである。そう言いながら和尚は、「こういう偉そうなことを平気で言うのを自画自賛と言い、こんなことを平気で言うやつを夜郎自大と言うのです」と笑った。高僧らしくない(らしい?)ハスに構えた皮肉がおもしろい。

よく引き合いに出す「老人の歴史」(木下康仁訳、東洋書林)によると、高齢期の「80歳は世の愚か者となる」、「90歳は子供にからかわれる」、「100歳は神の恵みを受ける」と言っている。ヨーロッパの古い教えだというが、ほどよくボケて、子ども帰りして、精神の安穏を得るのが幸せだと言うことかも知れない。これも高僧の言に通じる面白さがある。

ともあれ、敬老の日があろうがなかろうが、大方のご老体の生き方にはあまり関係ない。まあ、死ぬまでは世の移り変わりを横目で見ながら、なるべく面白おかしく、飽きずに懲りずにしぶとく生きて行きたいものだ。(2019・9・23 山崎義雄)