ババン時評 関電マンよ先人を偲べ

 

居残って「経営責任」を果たす?つもりだった関西電力の会長や社長、副社長らが、ついに観念して辞任を表明した。こうしてかっこう悪い辞任に追い込まれることは最初から分かっていそうなものだが、それが分からない人たちなのが情けない。知らずに?数千万円の余分な所得を得ていたことで社長辞任した日産の西川社長のほうがよほどいさぎよい。

先に「同情すべき?関電の収賄者」という一文を書いて、人間の弱さ・ズルさ・品位の保持の難しさに同情?を寄せたが、いつのころから日本の経営者がこんなに小ツブになってしまったのだろうか。関西電力でいえば、初代社長の太田垣士郎がいる。関電の発足は1951年(昭和26年)。電力界の再編成で誕生し、財界の声に押されて初代社長に就任したのが太田垣士郎だ。太田垣は、石原裕次郎三船敏郎主演の映画「黒部の太陽」で広く知られた黒部ダムを完成させた。

世紀の難事業と言われた黒部ダム建設に当たって太田垣は、「経営者が10割の自信をもってやる事業は仕事のうちには入らん。7割(6割と言ったとも)成功の見通しがあったら勇断をもって実行する。黒部は是非とも開発しなけりゃならん山だ」と決断した。良く知られた話だ。その決断は、戦後復興のための電力不足を見通したうえでの勇断だ。

太田垣の関電社長就任に当たって、太田垣に目をかけてきた小林一三は、「病弱な太田垣が新会社の難局に取り組んだら命に関りかねない」と心配したという。その太田垣が、黒部ダムで難工事に突き当たった時、「仕事を頼んだ俺が行かないという法があるか」といって苦闘する現場に乗り込んだ。黒部ダムの後には、日本の先行きを見据えて日本初の福井の原子力発電所建設を始めた。太田垣が夢を託したその原子力発電事業に現経営陣は泥を塗る所業をしてしまった。太田垣は1969年(昭和39年)、黒部ダムが完成した翌年に70歳で没した。

いつのころから日本はこうもダメになったのか。今回の関電事件と同じように、平成時代の終わりには大手企業や中央省庁の不正が相次いだ。原因としてよく言われるのはガバナンス(企業統治)の不備・欠如だが、本当にそうなのだろうか。それにも増して問題の根は「倫理観の欠如」にあるのではないか。太田垣は先見性、決断力、実行力に加えて倫理観と人間味があった。関電マンに限らず今は太田垣の大きな「人間力」を思い起こすべき時ではないか。(2019・10・12 山崎義雄)