ババン時評 象徴天皇の「立ち位置」

 

多くの日本人が、日本文化の奥深さに接して、日本人として誇らしい気分になったのではないか。テレビ桟敷で、新天皇の「即位礼正殿の儀」をみた。荘厳・華麗な儀式に目を奪われた。新天皇の「国民の幸せと世界の平和を願う」お言葉もよかった。

ところで、戦後の天皇憲法で国の「象徴」とされる。「象徴」とは、抽象的な概念などを具体的なものによって示すこと、と国語辞典にある。例えば、武士の魂は刀である、というようなものだが、これが分かったようで分からない。そもそも「具体的なモノ」にならないのが「抽象的な概念」ではないか。

その対立を、“対立物の自己統一”的な弁証法で説明する手もあろうが、簡単にいえば「抽象」と「具象」は対立する。昭和天皇は、象徴としての天皇の具体的な役割を常に考えられたが、「象徴天皇」の「具体的な役割り」を考えることは容易ではない。

しかし昭和天皇は「象徴」の意味を具現化することで熟慮に熟慮を重ね、国民と苦楽を共にする心を態度で示そうと努力された。この度の「即位礼正殿の儀」でも、新天皇のお言葉にあったように、「上皇陛下が30年以上にわたる御在位の間、常に国民の幸せと世界の平和を願われ、いかなる時も国民と苦楽を共にされながら、その御心を御自身のお姿でお示しになってきたことに改めて深く思いをいたし」、自らもそれを実践しようとされている。

その具体的なお姿が、例えば被災地などで、膝を屈して被災者に語りかけるお姿である。庶民のひとりとして心からありがたいと思う反面、恐れ多くも感じられ、言葉が過ぎるかもしれないが、そのお姿を痛ましくさえ感じてしまう。この度の「即位礼正殿の儀」で高御座にお立ちになるお姿と、庶民の「地平」に膝を屈するお姿の、あまりに大きな乖離に改めて考えさせられた。

これは、昔なら不敬罪に問われる分をわきまえぬお願いかもしれないが、令和という新たな世に相応しく国民に敬愛される天皇であってほしいと切に願いながらも、同時に「敬愛」よりやや「崇敬」に近いお姿で、「象徴天皇」としての「適度な高み」に立つという立ち位置を考えていただきたいと願うのは、時代遅れで見当違いの願いだろうか。(2019・10・25 山崎義雄)