ババン時評 深刻な?「国語力低下」

 

萩生田文部科学大臣は、試験場への距離や費用でハンディを背負う遠隔地の受験生に、「自分の身の丈に合わせて勝負してもらえれば」などとテレビで語って批判を浴び、謝罪に追い込まれた。大臣は、「説明不足な発言だった」「言葉足らずだった」と反省する。だが「身の丈に合わせて」とは、「分をわきまえて」と言う意味で、「説明不足」ではなく単純な言葉の誤用だ。

たまたま今、萩生田大臣の文科省の外郭 文化庁による「国語に関する調査」結果が話題になっている。言葉本来の意味を取り違える人が増えているというのだ、同庁は「活字離れに伴い、慣用句の意味を文脈から推しはかる機会が少なくなった影響もあるのではないか」という。まさに指摘通りで、いま明らかに活字離れが進んでいる。しかし同庁の調査結果にも違和感がある。

たとえば「御の字」の回答率では、本来の意味の「大いにありがたい」36.6%に対して、異なる「一応、納得できる」が49.9%だという。しかし「異なる」方の意味にも「多少、納得できる」ところがある。第一いま、「御の字」を「大いにありがたい」と感謝の気持ちで使う人がいるだろうか。「ありがたい」よりも「ありがテェー」「しめしめ」「まあいいか」くらいの軽い気持ちで使うほうが多いのではないか。

「砂をかむよう」では、本来の「無味乾燥でつまらない様子」が32.1%、異なる「悔しくてたまらない様子」が56.9%である。「異なる」意味は完全な間違いだが、「本来の」意味も、「つまらない」の一言では、「味も素っ気もなくて」「クソ面白くもなくて」、「砂をかむような」索漠たる気分が出ない。

「憮然」では、本来の「失望してぼんやりとしている様子」28.1%、異なる「腹を立てている様子」56.7%だ。しかし、失望しなくても“憮然状態”はあるし、第一、「ぼんやり」はあまり思うことのない状態だが、「憮然」には思うことが詰まっている。この説明では、当て外れやら不服やら屈託やらを抱えながら“仏頂面(ぶっちょうづら)”で憮然としている様(サマ)が浮かばない。

ほかでも、用語の説明には多少の違和感があった。同庁の調査にも、萩生田文科大臣の言にも、「慣用句の意味を文脈から推しはかる機会が少なくなった影響」があるのではないか。言葉の深い意味や言外の味わいは文章を読み込んで「文脈から推しはかる」以外にない。(2,019・11・3 山崎義雄)