ババン時評 わが国「メートル法」の夜明け

 高齢者ならだれでも子供のころ、家に鯨尺があったのを覚えているだろう。その鯨尺が禁止されたのは1959年(昭和34年)。これに猛反対したのが放送作家永六輔だ。今は商用取引以外ならメートル表示並記のかたちで使えることになっているらしい。それにしても今に至るまで鯨尺や尺貫法郷愁派・支持派がいるのだから、明治・大正の時代に我が国が尺貫法をメートル法に換えることがいかに難しかったか想像に難くない、

このほど同郷 岩手出身の知人 吉田春雄さん(工学博士)が「メートル法と日本の近代化」という本を出した(現代書館)。サブタイトルに「田中館愛橘原敬が描いた未来」とある。言わずと知れた田中館愛橘は旧東京帝国大学名誉教授・理学博士、原敬は初の平民宰相、日本の第19代内閣総理大臣だ。本書は岩手の偉人2人の関係とメートル法の成立にスポットを当てた初の文献だろう。

2人は幼いころ、旧盛岡藩の藩校「作人館」で学んだ。田中は明治11年、東京大学理学部物理学科一期生となって地球物理学を学ぶ過程でメートル法の合理性と普遍性を理解した。しかし当時の日本は尺貫法が中心で、それに、外国の軍事技術導入で、ヤード・ポンド法メートル法が併用され尺斤法も認められるなど多様な単位系が混在していた。

原は内閣総理大臣になって間もなく度量衡法改正のための委員会を設置する。そして大正10年(1921年)の帝国議会で改正審議が始まり、度量衡法単位系がメートル法主体に改正される。やがて田中館は万国度量衡会議常置委員としてメートル法の普及に尽力する。

二人は、戊辰戦争敗残により明治・大正時代、「白川以北一山百文」と揶揄されたこの時代に南部藩出身のハンディを背負って生きた。原は号を「一山」と称した。原は、捨てる神あれば拾う神ありの人生で、折々に人と対立し決別しながら新聞社や外務省などを経て政界に進出し、ついには総理の座を得る。陸奥宗光井上薫などの知遇を得る“人間力”もあった。

もしも原と田中館が友人でなかったら、田中館が原にメートル法を説かなかったら、原が総理大臣になっていなかったら、旧薩長中心の藩閥政治の中で、科学の基本であるメートル法の夜明けも日本の近代化も相当な遅れを来しただろう。新しい時代を切り開くにはこんな舞台が必要だったということか。そして役者は天の配材によるものだったというべきか。(2019・11・21 山崎義雄)