ババン時評 ゴーン被告の「正義」

 

やはりこうなった。日産自動車前会長のカルロス・ゴーン被告の海外逃亡が、新年早々の大ニュースとなった。同被告の海外逃避を察知できなかった“辣腕弁護士”も大恥をかいたが、不法にパスポートを持ち出された地検も情けない。

ゴーン被告は、「渡航禁止」を破って、航空機内の木箱に隠れて出国したが、同氏を受け入れたレバノンの現地当局は同氏の入国を「合法的」と見ているようだ。東京地裁が身柄の引き渡しを求めてもレバノン側は応じそうにない。

ゴーン被告は、卑屈な逃亡劇を演じながら、レバノン入りした途端に声明文を発表し自らの正当性を高言している。同被告は、その声明文中で、「私は正義からではなく、不正と政治的迫害から逃れたのだ」と言っている。そして「ようやくメディアと自由なコミュニケーションができる。来週からできることを楽しみにしている」と言ったらしい。

要するにゴーン被告の逃亡は、「正義」から逃げ出したわけではない。「不正」と「政治的迫害」から逃れた、というのである。ということは、ゴーン被告を裁こうとしている、会社法特別背任罪)などを定めた日本の法律を正義ではない、不正であると言っているのである。

国語辞典では、「正義」とは「正しい道理」であり、「不正」は「正しくないこと・さま」である。「正義」は「道理」であり、「不正」は「行為」だが、日本の法律は道理に反し、東京地検の逮捕劇は不正な行為だということになる。

この逃亡劇で思ったのは、哲学の祖 ソクラテスの言葉とされる「悪法もまた法なり」である。この法格言にはいろいろ疑義や解釈があるものの、多くの日本人が肯定?している“日本語の格言”であることは間違いない。

ゴーン被告の言い分に正義や道理を感じる人はいない。無知なる己を知る「ソクラテスの弁明」、「悪法も法なり」として弟子たちによる脱獄の誘いを拒否し獄中服毒死したソクラテスとは大違いである(比べるのも失礼だが-)。同被告には何としてでも日本の裁きを受けさせるのが正義であり道理であろう。(2020・1・3 山崎義雄)