ババン時評 人を殺すとはどういう意味か

理不尽でやりきれない事件である。相模原市の「津久井やまゆり園」で、知能障碍者ら45人が殺傷された事件だ。いま行われている裁判員裁判で、被害者の家族らが2月5日、横浜地裁の法廷に立って植松聖被告(30)に質問を行った。質問の真意、本当に聞きたいところは、「なぜだ。なぜ殺した」という悲痛な問いかけだろう。

それで、たまたま観たテレビの人気ドラマ、「相棒」を思い出した(1・31)。古い作品の再放送で「鮎川教授最後の授業」という作品だった。鮎川教授なる人物が、ドラマの終末部分で猟銃を構え、主人公杉下右京(水谷豊)ら10人ほどの人間に向かって言う。正確なセリフは覚えていないが「人を殺すとはどういう意味か。殺してはいけないとはどういう意味か」と迫る。

「人を殺すとはどういう意味か」-。難しい問いかけだ。生きている人間を殺傷することが「人を殺すこと」ではあるが、法理論や哲学のレベルで「殺すことの意味」を考えれば答えは容易ではない。ましてや「殺してはいけない理由」はさらに難しい。人殺しは倫理的に「いけないことだ」ということに説得力のある理屈をつけるのは簡単ではない。

今回の裁判における、被害者家族の質問に対する植松被告の答えでは、知能障碍者を「殺す意味」は、「社会の迷惑だから殺した方が社会のためだ」ということになる。「殺してはいけない意味」、いけない理由は、ない。知的障碍者とは「共生できない」からである。植松被告に必死で問いかけた被害者遺族には、彼の「心が見えなかった」。反省のない被告に「心」を求めるのは空しい。

植松被告の答弁は、良くも悪くもしっかりした答弁である。弁護士の常套手段である心神耗弱など精神的な問題を理由にした減刑作戦など考えられないほど正気な?答弁である。罪を裁くに当たっては「故意」か「過失」かが大きな判断基準になるが、植松被告の殺人は明らかに故意による犯行だ。差別的主張を変えることのない確信犯だ。

未来はAI裁判官が現れて、故意か過失かさえも気にせずに、植松被告のような“難物”もドライに裁くかもしれない。それも恐いが今はまだ人間が人間を裁く“人間裁判”の時代だ。犯行の意図を明らかにし、被害者の声も聴き、過失か故意かを判定し、犯行の態様を見極めて、植松被告にも精一杯の量刑を課してもらうという“人間くさい裁判”に期待するしかない。(2020・2・5 山崎義雄)