ババン時評 パラリンピックと人体改造

新型コロナウイルス」の猛威はおさまりを見せない中で、オリンピック・パラリンピックの開催時期が近づいてくる。過去においては、オリンピックとパラリンピックは別の競技大会として開催されてきたが、東京オリンピックパラリンピックではまさに同格だ。

 今やパラリンピックは“市民権”を得たともいわれる。過去においては、五体満足でない人間がスポーツで競い合うこと自体に少なからず偏見があった。しかし今は、身体の欠陥やハンディを乗り越え、義足や車椅子などを活用し駆使して堂々と競い合う姿を純粋なスポーツとして観戦するのが当たり前になった。

パラリンピックの競技種目は、同一レベルの能力を有する選手同士が競い合えるように、障害の種類、部位、程度によって細かくクラス分けされているという。たとえば陸上競技の場合は「視覚障害」「肢体不自由」「知的障害」などに大分類されるという。

 話は飛ぶが、5年ほど前によく売れた本にレイ・カーツワイル著「ポスト・ヒューマン誕生」がある。同書は、急激に発展する遺伝学、そして原子単位の操作と加工ができるナノ技術、それにロボット工学という3つの技術革新によって2040年ごろには人間そのものも改造されるだろうと予測した。当時私は、同書を引いて「私は誰でしょう」というエッセイを発表した。

人間改造が進んだ先に、人間喪失の恐れなしとはいえないだろう。人間は人それぞれの体力・頭脳などの個人的な制約と、国家・社会など環境的な制約という2つの制約条件、言い換えればその2つの限界の中で生きるものだと思う。さらに言えば、人間の持つ限界の最たるものが「死」であろう。しかし人間改造の先には不老不死の世界さえも見える。

個々の人間の心臓や肺や脳などの主要機能の欠損部分が人工的な“機能部品”に置きかえられていったら、どこまで個の人格と見なせるのか。また、パラリンピックに異を唱えるわけではないが、これから先、特定の身体部位を人工的に強化していくようになったら、スポーツマンとしてどこまで許容できるのか、簡単な問題ではないだろう。少なくも、カーツワイルの予言通り人間改造が進んだ先に、自我の喪失があり“私は誰でしょう”とならないことを祈りたい。(20202224 山崎義雄)