ババン時評 人生の意義など考えるな?

 

春彼岸の時節である。高齢者にとってはとりわけ大事な行事の墓参りも、二の足を踏まされるのが中国コロナの暴れぶりである。元凶の中国は、国内の蔓延は抑え込んだとして、これからは「救済国」の役割を果たすと言う。世界の不安、感染者の恐怖、死者の無念を思えば、この中国の“政治発言”には正に開いた口が塞がらない。

たまたま手にした円覚寺派の小冊子「円覚」329号は「春ひがん号」である。冒頭に管長 横田南嶺師の玉稿「禅と念仏-一遍上人に学ぶ-」があり、他宗 浄土宗の一遍上人の句「となふれば仏もわれもなかりけり 南無阿弥陀仏 なむあみだ仏」を引いている。

この歌を、一遍上人は最初「となうれば仏もわれもなかりけり 南無阿弥陀仏の 声ばかりして」と作ったところ、師の法灯国師が「未徹在」、十分でないと評した。そこで作り直したという。これに対して横田南嶺師は、前の歌には「まだ念仏している自分と阿弥陀様との間に隔たりがある」感じだが、後の歌は「南無阿弥陀仏一枚になりきっているのです」と言っている。

この小冊子には、俳人長谷川櫂さんの講演録、「俳句的死に方」(4回シリーズの2回目)が掲載されている。その中で同氏は、「人生の意義を考えるというのは、僕はあまりしないし、やる必要がないと思っている。なぜならば、意義を考える前に自分は生きてしまっているわけです」と言っている。結局は生きるしかないということでもあろう。

そして「自分探しや、今までの人生は何だったんだと思って旅に出たり、お遍路さんに行ったりする人」がいることについても疑問を呈している。長谷川さんは、人生の意義を言葉でとらえる前に人間の生きる姿、死んでいく姿、直感する人の命、人の死を思うと言う。物事を直截的に捉える俳人らしい哲学だろう。これは横田南嶺師の言われる、阿弥陀様と念仏を唱える者が「一枚になりきっている」という瞬間に通じるものがあろう。

もちろん人間の歴史が繰り返してきた哲学的な「生死観」も大事だが、たとえば“コロナ死”という眼前の事実を前にして、人間の生きることと死ぬことの現実的・直接的な意味を直視することも大事だろう。ところがその純粋な生と死の大事な見極めを、国家主義や政治体制や社会環境の波乱要因が妨げている。(2020・3・24 山崎義雄)