ババン時評 発言時代×聞く耳喪失=SNS

昔?評論家の大宅壮一が、テレビの出現で日本人は「一億総白痴化」すると予言したことがあるが、今はSNS(ネットの交流サイト)の拡大などで「一億総発言時代」である。そのSNSで最も手軽な発言手段がツイッターだ。自分の意見をツイートするだけでなく、他人の意見もそのままリツイートしたり、「へー」とか「ホー」とかいう程度の感想を付け加えて“己が意見”のように発信する時代になった。

こうして今、他人の一言、不用意な一言や悪意のある一言でも、あるいは明らかなニセ情報でさえも、面白ければリツイートされて爆発的に拡散することになる。そこで大人社会は、若者のこうした意見とも言えない軽くて不用意で危険なツイートを問題視する。さらには若者の語彙の乏しさ、表現力のなさを嘆くことにもなる。

そんなこんなで今、若者世代の活字離れが問題になっている。しかしこの傾向は若者世代に限らず、すでに中高年社会にも蔓延しつつあるのではないか。とすれば、字数制限140字以内で2~3行の“つぶやき”発言をするツイッターは時代の要請にマッチしていることにもなる。

戦後日本の教育は自己表現力の向上を目指してきた。その方向、その基本方針を誰も疑わなかったが、しかし本当にそれだけでよかったのだろうか。その結果がツイッター発言時代になっているのである。ツイッター現象にみられる一部の無責任で危険な自己表現は、自己表現力を重点的に鍛えた戦後教育の結果でもある。

その自己表現力重視に欠けていたのは人の話を聞く謙虚さであり、自らを省みる自制力・反省力ではないか。さらに、自己表現についての自制力・反省力は、自分の発言や他人の発言に使われる言葉の意味の正しい解釈・理解から生まれるはずだ。そのためには自己表現力の向上の前に他者の発する言葉の意味を正しく解釈し判断する力、つまり「聞く力」こそが大事ではないか。

聞く耳が大事なのは英語のリスニングだけではない。日本語のリスニング教育も考えてみてはどうだろうか。原点は幼児期にある。祖父母や親に昔話を聞いた子や絵本の読み聞かせをしてもらった子は、素直に聞く耳を育てられたはずだ。「一億総発言時代」が「聞く耳喪失時代」であっては困る。(2020・4・11 山崎義雄)