ババン時評 危険な「バチ当たり思考」

コロナでピンチに陥った学習塾の女性経営者が、公的助成金を申請して100万円の助成金を受けた。感謝と喜びの一方で、1週間、10日と日が経っても本当に返済ナシの助成金なのか、返済すべき借入金ではないのかと不安になるという。まじめな経営者はこんな具合に心配するのだ。

一方で、野党言うところの“トンネル会社”か“幽霊のような団体”を通して多額の「コロナ資金」をゲットする限りなく不明朗なからくりも露見した。どうしてこうも情けない事例が多発するのか。先に『「バチ当たり」の中身』について書いたが、実に腹の立つ「バチ当たり」な事例が多発する今日この頃である。

そうした時代背景を映しているのか、科学万能とも思われる現代において、なんと抹香臭い「バチ当たり」思想が復活しているという。そこで心配なのは、その「バチ当たり思考」が、自分のことはタナに上げて他人の非を責める他罰的な「バチ当たり思考」ではなかろうかという疑問である。

コロナ対策で密閉、密集、密着の「三密」が言われたが、すでに、弘法大師空海が日本に伝えた密教真言宗に「三密」がある。こちらの三密は、身密、口密、意密で、それぞれ厳しいしきたりを踏む修行の仕方である。修行の狙いは身体と言葉と心にある。

宗教の源流を遡れば、紀元前1000年ごろの古代イランに生まれたゾロアスター教に辿り着くようだ。この宗教は、人間は現世で三徳(善思、善語、善行)を積めと教え、「最後の審判」において、悪人は地獄に落ち、善人は天国(楽園)に生きる日がくると説いた。

このゾロアスター教に、後のユダヤ教キリスト教イスラーム教、そして仏教なども、天地創造最後の審判、天国・地獄、洗礼など多くの教義を学んだとも言われる。そして、そこに共通する「バチ当たり」的思想や因果応報の思想は、本来、自律・自戒の教えと取るべきだろう。

自分勝手なことをしていると「バチが当たるぞ」と他罰的な使い方をしては、手前勝手な己にバチが当たりかねない。今はネットでの無責任な誹謗中傷で人を死に追いやるような時代になった。まずは自分が「バチ当たり」にならないよう、SNS時代の自省・自戒として「バチ当たり」の意味を考えるべきだろう。(2020・6・11 山崎義雄)