ババン時評 人間は「なぜ生きる」

 今年は、中国コロナのトバッチリで、高僧の説話を聞ける菩提寺の施餓鬼会が中止になった。人間の生き方・死に方については、凡俗の論ずるテーマではないが、後期高齢者ともなるとやはり考えてしまう。愚考の一端は折に触れて、この「ババン時評」にも書いてきた。私は、死後の世界はない、死後の肉体は元素に還元されて天地に帰るだけだと思っているが、死んでみたことがないので、本当のことは分からない。

 無神論者に近い我が身ではあるが、大学1、2年生のころ縁あって禅寺に身を寄せて以来、仏教と言うものが“気になりながら”生きてきたのは事実である。宗教やそこから生じた哲学は、他の動物には免除されていて人間だけに負わされた“宿業”ではないだろうか。

 ところで、この小文のテーマにある「なぜ生きる」というのは、いま売れている本の題名である(『なぜ生きる』高森顕徹監修 明橋大二 伊藤健太郎 著)。よく知られる親鸞の言葉に、「善人往生す いわんや悪人をや」という「悪人正機」説がある。「善人が救われるのだから、ましてや悪人が救われないはずはない」というのは、誇大なレトリックにも聞こえるが、問題は「悪人」である。

 これについて親鸞自身が、自分は「罪悪生死(しょうじ)の凡夫」であり「出離の縁あることなし」と言う。つまり、自分は悪をなす凡夫であり、「地獄は一定のすみか」から「出離」できない身だというのだ。そういう身でも「弥陀の誓願」を信じることで「往生」できると説く。そして往生とは、浄土へ“往”き、仏に“生”まれ変わることである。

 「往生」というのは、世にいう「困った」とか「死んだ」という意味ではないというわけだ。親鸞の生き方は激しく、肉食妻帯からはじまり、時の権力者や他宗派・高僧まで攻撃し、「私が死んだら、加茂河原に捨てて、魚に食べさせるがよかろう」とまで言った。発言の真意は“捨て鉢”で言ったのではなく、往生の後、永遠の命を生きるからには、現世を仮託して生きた肉体は不要だという意味だろう。

 こうなると、死後の世界はないなどと簡単に否定することに疑問が生じる。肉体が消滅することまでは誰でも知っているが、精神が肉体を離脱して死後の世界に「往生」するかどうかは知り得ない。しかし、「往生」を否定するよりは、信じたほうが(心が)救われる、ということだけは確かであろう。(2020・7・1 山崎義雄)