ババン時評 「言語」はただの「記号」

はたして「言葉」は単なる「記号」なのだろうか。言語学の祖といわれるソシュール(1857~1913)は、それまでの、言語はコミュニケーション・ツールだとする言語学から、「言語」は「記号」であり、「記号」が思考のツールだとする言語学を創始した。そして、眼前の世界や物事は、それらの「存在」そのものによって「それ」と規定されているのではなく、その存在を分割・整理した「言語」すなわち「記号」によって規定されていると説いた。

それについて出口治明著『哲学と宗教全史』に面白い説明がある。言い回しは違うが、例えば日本語の「海」という言葉はすなわちソシュールの言う「記号」であり、この「海」という「記号」によって「それ(海)」が規定されており、その記号「海」を見たり聞いたりすると、日本人は白い波や松林などの光景を思い浮かべる。つまりこの「海」という「言語=記号」が、白い波や松林など海の光景を「認識=思考」するためのツールとなるというわけだ。しかし「大和は言霊のさきわう国」日本の、日本語の「海」がただの「記号」とは思えない。

ソシュールの言語論・記号論は、後の言語学者や哲学者に大きな影響を与えるが、同時に、大いに難解な学問になった。ついには「言語論、記号論は、誰もが知っている言葉の役割を、誰にも理解できない言葉で説明する。言語論・記号論は排他的クラブで語られる」などと揶揄されるまでになる。

したがって言語論・記号論は、素人が論戦を挑むジャンルではないが、あえて素朴な疑問を述べれば、ソシュールは、「言語」は「記号」であるというが、「言語」は国や民族によって異なるものであり、かたや「記号」は国や民族を超えた万国共通の基準ではないか。つまり、両者は簡単にイコールで成り立たつような関係ではない、のではないかという疑問が生じる。

先の、「海」という「記号」から想起する白い波や松林は日本人のものであり、世界的なイメージとは程遠い。したがって「言語」は「記号」であり、普遍的な思考のツールだとする説には疑問が生じる。まずは、ソシュール以前のコミュニケーション・ツールとしての言語、国や民族によって異なるコミュニケーションを否定ないし軽視する記号論に素直についていけない。と思うのはやはり素人考だろうか。(2020・7・3 山崎義雄)