ババン時評 どこまでも続く「いま」

コロナの災厄は一向に収まる気配がない。いずれは終息するだろうが、ある日ある時、ピタリと終わるわけではない。時の流れの中で連続、断続(断続という連続)を経て終息(コロナは死んだふりを)する。「連続の今」「連続の今日」が続く。

人生も「今の連続」「今日の連続」である。そこで「いま」という詩を思い出した。8年前に97歳で没した詩人・杉山一平さんの詩である。杉山さんは、詩集「希望」で日本現代詩人賞を受け、授賞式を2週間後に控えてこの世を去った。詩はこう語る。

もうおそいということは 人生にはないのだ おくれて行列のうしろに立ったのに ふと気がつくと うしろにもう行列が続いている  おわりはいつも はじまりである

この詩は本来4行詩だが、字数の関係で2行に短縮させていただいた。「もうおそいということは人生にはないのだ」というこの詩について、私は8年前、失礼な感想をネットで発表した。「おくれて行列の後ろに」立っても出遅れを悔やむことはない。「ふと気がつくと、うしろにもう行列が続いている」。後ろを見て思う。ざまあみろ、俺の勝ちだ。でも前に並んでいる奴らはいまいましい、などと考えてはいけないのだ―と。

しかし本当は、「希望」は「いま」にあると詩は教える。もちろん「希望」は先行きの成就を願うことであり、「いま」は過去と未来のあいだの一瞬の「いま」だ。だが、「希望」は先のことで「いま」は今だから時間差があって合体できない、と考えてはいけないのだ。「おわりはいつもはじまりである」。

おわりの「いま」がはじまりである。ぐるぐる回転するのだから、先を争うこともない。遅れてきたものを見下すこともない。出遅れたように見える己の運の悪さ、ツキのなさを嘆くことはない。いま立っているここでいいのだ。そう考えれば、未来の「希望」と「いま」は合体できる。詩人はそう確信して生きた。

今でいいのだ。人間の命の「おわりはいつも、はじまりである」。明るい「希望」は今ここにある。今に感謝し今を喜べばいいのだ。刹那的にではなく、輪廻を知って「いま」を生きればいいのだ。「いま」を見事に生き抜いた市井の詩人・杉山平一さんの生き方が、そう教えている。8年たって己の駄文を読み返してみてもこの詩への共感は少しも変わらない。(2020・7・5 山崎義雄)