ババン時評 禅の鋭さか浄土の許しか

古典落語の「蒟蒻問答」は、ニセ坊主の蒟蒻屋六兵衛が、旅の僧と禅問答をする話である。何を問いかけても無言で対応する六兵衛に、「禅家荒行の無言の行」だと取った旅僧が、しからばと所作で問う。まず僧が両手で輪を作って示すと、六兵衛は両腕で大きな輪を作って見せる。僧は平伏する。次いで僧が両手10本の指を立てて示すと、六兵衛は片手5本の指を立てて見せる。またまた僧は平伏する。ならばと僧は3本の指を立てて示すと、六兵衛は片方の目の下に指を当てて見せる。僧は恐れ入って退散するという話である。

僧の負けた理由は、最初に「和尚の胸中は」と問いかけたら「大海のごとし」との答え、次いで「十方世界は」と問えば「五戒で保つ」との答え、最後に「三尊の弥陀は」と問えば「目の下にあり」との答え。とても及ぶところではないと僧は退散する。六兵衛に言わせると「あの坊主はオレが蒟蒻屋だと知っていたらしい」「お前ンところの蒟蒻は小さいだろうというからこんなにデカいと言ってやった」「10丁でいくらだというから5百文だと言ったら3百文にまけろとぬかすので、アカンベェしてやった」となる。

禅の難解さと浄土教の教えは対照的だ。こんな話がある。『太平記』の鎌倉幕府滅亡の時、長崎二郎高重という鎌倉方の武将が、崇寿寺の南山士雲師に「如何なるか是れ勇士」、つまり勇士としてなすべきことを問い、「吹毛(すいもう)急に用いて前(すす)まん」、つまり吹毛(鋭利な剣のこと=禅語)を振りかざして前進することと教えられ、迷いなく敵将新田義貞の陣に討ち入る。

それに比べて、『平家物語』の壇ノ浦合戦で、命運尽きたと見る平知盛は、最後まで一人奮戦する能登殿平教経に向かって「いたう罪な作り給ひそ」つまり、あまり罪作りをしなさるな、来世での罪障になるぞと諭した。ここには、来世での往生を願う浄土教の考え方と、「今」「ここ」に生きる禅の考え方の違いを見ることができる。『「円覚」うらぼん号(330号)所載・田中徳定「中世文学と禅(三)」』

落語の「蒟蒻問答」は屈託なしに笑わせてくれるが、近頃の日中・日韓間の外交対話などは、聞いている者に嫌気を催させたりイラつかせたりする“蒟蒻問答”が多い。こうした日本を取り巻く問題国家との付き合いは、禅の鋭さで行くか、浄土の許しで行くか、お盆の時期にそんなこと考えてみるのもいいのではないか。(2020・8・8 山崎義雄)