ババン時評 「しめたもの夫婦」の形

「しめたもの夫婦」については後で触れるとして、まずは先ごろ、80半ばで逝った先輩の葬儀に参列した。自ら歩んできた高校、大学、会社OB会などのリーダーを務めた人だけに、社交的で人脈も広く、明るい人柄で人望のある人だった。知らせを出したら大変な葬儀になっていたと思われるが、コロナ下の質素な家族葬だった。

会社OBの先輩がたまたま通夜前日に故人宅に電話して逝去を知り、私ともう1人が誘われて3人で特別に通夜の席に参列させてもらった。読経が終わった後、喪主の奥様と少しの間お話をした。奥様から丁寧なお礼の言葉があり、私達3人が故人との関係をこもごもお話しした。

そこで驚いたのは(言っていいのかどうか迷うのだが)、われわれの話に対する奥様の反応が「そうでしたか」という程度のもので、故人とわれわれの長い会社人生や個人的な付き合いについて、残念ながら何も知らなかったらしい、ということがわかった。

そして思い出したのが読売新聞の「人生案内」にあった『「自分が正しい」譲らぬ夫』という話(読売10・14)である。相談者は40代のパート女性。回答者は最相葉月(ライター)さん。相談者が夫君に「話し方に気を付けて」と進言してもダメ。話しかけても返事は否定から始まるので「悲しい」。

夫は変わらないだろうし、もうやっていけないとまで思う。これに対して回答者は、「若い頃のあなたは、夫のそんなところを頼もしいと感じたこともあったでしょう」と言い、それが今や、これまでの人生経験を通して「あなたはもう変わったのですよ」と言う。

そして「貴方の人生はこれからもっともっと豊かなものになるはずです」と励まし、習い事やボランティアをするなどで「自分の中に夫が占める割合を徐々に減らし、いつ一人になっても大丈夫なように、今から準備しておいてください。自分に関心を向けなくなり、なんだか楽し気な妻の姿を見て、夫がさみしそうな顔をしたらしめたものです」とアドバイスする。

読んで思うのは、この相談者の人生がどんなふうに「しめたもの」になるのかということだ。相談者が成長して夫の上位に立てれば「しめたもの」になるのか。妻の成長で夫が変れば「しめたもの」になるのか、お互いが自立して相手の領域に立ち入らないケース、あるいは無関心になって会話を失うケースも「しめたもの」になるのか。故人となった先輩ご夫婦のかたち、想像するお二人の来し方も重なって、「しめたもの」になる過程、「しめたもの夫婦」の形を考えさせられる。(2020・10・30 山崎義雄)