ババン時評 「病める現代」の人づき合い

「人生相談」の名人でもある哲学者の鷲田清一さんは、人生相談のコツは相談に「答える」のではなく「乗る」ことだと言っている。相談に「乗る」ということは、「相談する人」と「回答する人」の対面的な関係ではないということだろう。言い換えれば両者は、一緒の方向を目指す横並びの位置関係にあるということではないだろうか。

例えは悪いが、仮に悩める相談者が馬だとするなら、鷲田さんはそれに「乗る」旗手かもしれない。その上で、迷える馬の行く先に向けて鷲田旗手のみごとな手綱さばきで馬を御するのか。どうもそれは鷲田さんの言う相談に「乗る」意味とは違うようだ。だとしたら、鷲田騎手は手綱を緩めて行く先を悩める馬の歩みに任せるのか。それではあまりにも相談に「乗る」だけに過ぎる。多分その中間で、相談者の悩みに応じて手綱さばきを加減することが相談に「乗る」ことなのだろう。

そして鷲田さんは、悩める相談者が人生の岐路で選択に迷うなら、選択することをやめて他人に決めてもらえばいいのだ、などと身もフタもない?ことを言う。そこまで言ってしまっては人生相談にならないのではないかと思うのだが、自分一人で悩まずに誰かに聞け、決めかねるなら誰かに決めてもらえと言われた相談者が、迷いながらもとりあえず一人でもがく選択の苦しみから逃れられる、ということがあるのかもしれない。

決めかねるのなら人に決めてもらえ―。そんな簡単なことで、いったんコトが収まるのならそれでもいいではないか―。どうせ先のことは誰にも分からないのだから―。どの道を選んでも人生五十歩百歩なのだから―。どうせ人間死んでいくんだから―。哲学者・鷲田さんが人生相談に「答えず」相談に「乗る」というのは、多分そういう意味でもあるのだろう。

M・スコット・ペック著 森英明訳『平気でうそをつく人たち』」(草思社)に、困った人たちとして、どんな町にも住んでいるごく普通の人で、自分には欠点がないと思い込んでいる人、異常に意思が強い人、罪悪感や自責の念に耐えることを拒否する人、他者をスケープゴートにして責任を転嫁する人、対面や世間体のために人並み以上に努力する人、他人に善人だと思われることを強く望む人、などが挙げられている。

人生相談を持ち込む人の中には案外こういう傾向を持つ人もいるのではないだろうか。こういう性癖を持つ人の悩みごとにも解決に踏み出すための「気づき」を与えなければならない。そのためには、その性癖を全否定せずに相談に「乗る」必要があろう。「病める現代」における人生相談は容易ではない。そしてこれは人生相談者だけの悩みではない。誰もがそういう厄介な隣人と付き合わなければならないのが、「病める現代」の人づき合いなのだ。(2020・12・27 山崎義雄)