ババン時評 日本人よどこへ行く

令和3年の春である。カルロス・ゴーン元日産社長は、故郷レバノンで優雅な生活をしているらしいが、国内では、IR汚職収賄で有罪判決を受けた衆院議員秋元司被告、足元の鶏卵業者から多額の現金を受けた吉川貴盛元農相、そして安倍元首相主催の「桜を見る会」の不正経理など、「政治とカネ」を巡る不祥事が続発した。安部氏の“桜受難”は今年も続く。

一方、そうした大きなカネの流れの外にいる一般庶民の世界では、仕事をしながらも貧困に苦しむ人たちが増えている。特に、ワーキングプアと呼ばれる人たちは、生活保護の水準にも満たない収入でぎりぎりの生活を強いられている。そういう人たちは、非正規やアルバイトで働く人たちだけでなく、いまや正社員の労働者や公的機関の労働者にまで広がってきている。

こうして上層と下層に社会が二層分化した社会が現代の「格差社会」ということになる。ところがいま、一概に「格差問題」を問題視することにも問題ありとして、意外にも専門家の間に格差容認論がある。例えば格差拡大は高齢化によるものだとする説は、若者より高齢者の所得格差が大きいために、高齢化が進むほど格差拡大が進む(進んでいるように見える)というものだ。

さらに、自由競争の市場主義経済のもとでは実力主義成果主義が働き、結果として収入その他で経済的格差、社会的格差が生じることは自明の理だとする本格的な容認論がある。それに対して平均的な日本人は、「平等」に対する意識が弱く、認識が甘い。むしろ「平等」を要求するとか「平等」を勝ち取るといった積極的な態度をとることに、後ろめたさや恥ずかしさを覚える傾向がある。

そうした日本人の特質を早くから指摘してきたのは、橘木俊詔著『格差社会―何が問題なのか』(岩波新書)だ。すなわち「かつての平等社会日本では、実際に格差がありながらそれがあたかも無意味であるかのようにふるまっていた。収入の高い人も低い人もみんな同じように『自分は中の下』と考えていた。いわば『平等ゲーム』の社会であった。それに対して、現在の不平等社会日本では、実際の格差にむしろ過剰な意味を見出そうとしている。『格差ゲーム』の様相を呈しているのだ」-。

たしかに、少なくとも戦後の高度成長期ぐらいまでは、上下の格差におおらかだった日本人が今は不平不満を鳴らすようになった。つまり他者との違いに過敏に反応する時代になったということだろう。日本人の特質が変化して、日本人が欧米人並みの権利意識、平等意識に覚醒したということかもしれない。さて日本人よどこへ行く。(2021・1・5 山崎義雄)