ババン時評 資本主義/共産主義と格差社会

26対38といえば、数字に大差はないように見えるが、26人対38億人となれば、これはとんでもない大差で、どだい比べることが無意味に見える数字だ。しかし前者の26人は世界の超富豪であり、後者38憶人は世界の最下位貧困層の人達だ。そして、両者の保有資産合計額がほぼ同じだということになると、26対38という数字は見過ごすことができなくなる。

ごく一般的な意味で言えば「格差」とは、ある事柄についての程度の違いのことだが、「格差社会」においては2つの「格差」があるとされる。1つは所得の違いからくる「経済的格差」と、もう1つは社会的な地位や階級などの違いによる「社会的格差」だ。

両者の関係は、「経済的格差」の結果から「社会的格差」が派生し、その「社会的格差」が次のステップの「経済的格差」へと拡大再生産される関係だ。つまり「経済格差」で経済的に恵まれた家庭の子供の将来はさらに高学歴・高収入へとつながり、社会的地位を得てますます「社会的格差」に恵まれることになる。

そうした「経済格差」と「社会格差」の循環と連続によって富める者はますます富み、貧しい者はますます貧しくなり、社会の二層構造が拡大するという仕掛けだ。それによって国や世界の富の大半を一握りの人間が独占することになったのが現在の資本主義社会の実相だ。

とすれば、将来も「格差」の否定と解消に挑戦することは無謀であり徒労に終わるということになるのだろうか。望むべきは基本的に「平等」な社会であり、誰もが同じ権利や処遇を与えられる社会だが、その実現は資本主義でも共産主義でも不可能だということを大戦後の歴史が証明している。ところが中国の台頭により、勝負はついたと思われていた共産主義復権して今、自由主義圏と共産主義圏が厳しく対立している。

しかし今、世界共通のコロナ対策はかぎりなく社会保障政策的な側面、つまり原初の共産主義思想に近い色合いを強めている。そしてポストコロナには環境問題など地球規模の問題が控えている。この2つのポイントは、挑戦すべきテーマすなわち「課題の共有」と、挑戦の結果すなわち「成果の共有」を意味するのではないか。

これを仮に「共存主義」と名づければ、「共存主義」は「資本主義」と「共産主義」ないしは「社会主義」の間に位置することになる。先に「日本人よどこへ行く」というタイトルで、「格差」と「平等」の関係について“愚考”を述べたが、この「共存主義」に挑戦することは、格差社会からの脱出と平等社会を目指す方向ではないだろうか。研究してもらいたい。(2021・2・8 山崎義雄)