ババン時評 強まる 失言を許さぬ風潮

ネット社会の広がりもあって、ますます他人の失言を許さない風潮が強まっているように思える。森喜朗・元オリ・パラ会長も、つまらない“軽口”によって会長辞任に追い込まれ、晩節を汚す?大事になるとは思いもよらなかったろう。森氏にチョッピリ同情をよせる二階俊博自民党幹事長の発言などもたちまち世論に(マスコミに?)叩かれた。

森氏や二階氏など、古い人間が幅をきかす社会や組織の弊害を指摘する声もあるが、えてして古い人間や“大物”の物言いは、軽口的で情緒的になる。言葉には論理的な言葉と情緒的な言葉がある。日本語は他言語に比べて多分に情緒的な言葉だといわれるが、さらに年齢とともにその傾向が強まる。長年の思考や経験のエッセンスは、大脳の“論理の座”である新皮質から“情緒の座”である旧皮質に移って“沈殿”する。そのエッセンスが折に触れて不用意に口を突いて出る。これが組織のトップに年寄りを据える弊害の一端でもある。

古い日本人にはそんな“軽口”を許すゆとりもあった。しかし今の日本にはそのゆとりが失われている。とはいえ小池百合子都知事などは、今回の森発言に対して最初のうちは、話の長いのは男女の差だけではないんじゃないの(笑)トカゆとりを示していたのだが、世論の風向きをみて森批判に本気を出した。

国際オリンピック委員会IOC)も当初は森会長の去就について“おかまいなし”の意向を示していたが、日本国内の森攻撃が盛り上がって国際世論まで動かすに至り、看過できずに厳しい態度に転換した。ここで森氏を擁護するつもりはないが、水に落ちた犬(失礼)を棒で叩くような国内世論の荒々しく殺伐とした風潮にやりきれなさを感じてしまうのは私だけだろうか。

記者会見で若い記者が、男女差別的な発言どう考えるかというような質問を投げかけて森氏に謝罪させた後、そのような人が会長の座にあることをどう考えるか、といったような意地悪質問をする。こういう「無礼な正論」に森氏の“情緒の座”が(お詫びの記者会見中にもかかわらず)ムカッと反応するのである。

森氏ならずともマスコミの度を越した攻撃姿勢に不愉快な思いをしている国民、とりわけ高齢者は少なくないはずだ。『明治維新から見た日本の軌跡、中韓の悲劇』」(加瀬英明、石平共著、ビジネス社)で、加瀬氏が大要、中国語では必ず「私が」-と言うが、日本では、「私」という言葉をなるべく省く。『「私」を前面に押し出すと、卑しくなるからです』、といっている。日本人も中韓並みに自己主張が強くなり攻撃的になったとは言わないが、日本人の奥ゆかしさもだんだん怪しくなってきて、世の中殺伐としてきたように思われる。(2021.2.12 山崎義雄)