ババン時評「わいせつ教員」の罪と罰

洋の東西を問わず、昔から幼い子供を性的嗜好の対象にする「人間だけの悪癖」は後を絶たない。対象は女の子に限らず、戦国武将が愛した小姓などの例もある。一般人にとっても、だれにとっても汚れを知らない子供は無条件にかわいい存在だ。抱きしめてやりたいと思うことがあっても当然で、むしろ健康な感情だとさえ言えるのではないか。

しかし健康な常識を持つ人間は、その先に踏み込んでかわいい子供を性的欲求の対象にしようとは思わない。たとえ思うことがあっても、一時的に魔が差すことがあったとしてもそこで踏みとどまるのが健康な人間の常識だ。リカちゃん人形にハマる中高年男性の話なども聞くが、彼らはその限界を超えて生身の子供を自分の嗜好の対象にしようとは思わない。

したがって、今社会問題になっている「わいせつ教員」も、一概に許しがたい犯罪者だと決めつけられない面がないわけではない。例えば強い人間か弱い人間かといえば、自己抑制が効かなかったという意味で「わいせつ教員」は弱い人間だと言えるのではないか。しかし、弱い人間だから許せというわけにはいかない。そのために深く傷つく被害者の子供がいる。

社会経験もなく判断力も未熟な未成年者の心身を傷つける行為は、無抵抗の児童に対して教師の地位を利用して加害に及ぶもので、特殊で一方的な犯罪だ。国民の感覚からいえば、「わいせつ教員」には二度と教壇に立って欲しくないと思うのが当然だ。そのためには教員免許の剥奪を「無期限化」しなければならないが、これには、一定期間を過ぎれば免許を再取得できる他資格と不公平になるとか、一定の罪を償えば社会復帰できる刑法と「整合性」がとれない、などの疑問がある。

しかし、他の犯罪のように、罪を償って晴れて教壇に立つというのは常識的に違和感がある。刑事罰には「教育刑」と「因果応報刑」の考え方がある。前者は、罰はまともな人間に立ち直らせるためにあるというものであり、後者は犯した罪に与える応報の罰であるとするものだ。この際、「わいせつ教員」に対しては「教育刑」的な配慮を捨てて、「応報刑」的判断で教員免許剥奪の「無期限化、永久化」を実現すべきだろう。

「わいせつ教員」の人間的な弱さに一片の同情がないわけではないが、懲戒免職で教員免許を剥奪された者は、教員免許の有無、失効と再交付問題以前に、性的衝動に弱いがゆえに子供を教導する資格のない自らを深く反省し、他の分野で生きる道を切り開くべきだろう。(2021・3・9 山崎義雄)