ババン時評 自衛権に準じた尖閣防衛を

先にババン時評『のんき過ぎる「危害射撃」』を書いた。そこで引いた小説「邦人奪回」における官房長官の「奪回作戦」の狙いは、毛並みは良いが決断力と統率力に欠けて支持率の低下した総理の政権浮上と、政敵大臣の追い落としにあった。作戦は隊員の犠牲者を出したが邦人奪還には成功した。

総理は、作戦終了時の記者会見を、官房長官の指示通りの挨拶で野党の「暴走政権批判」を乗り切った後、軍犠牲者の各部隊葬に出席しながら気力を失って行き、ついに総理の座を官房長官に譲ることになる。似たような総理や官房長官は、現実の政治世界に生きている。

小説の自衛隊佐官2人のように、上役に疎まれて飛ばされる例も組織の常、人の世の常である。小説の筆者は、おそらく似たような体験をして自衛隊を中途退役したのではないかと思われるが、優柔不断の政治家や私利私欲の政治家、制服の中身はそんな政治家と同類の軍人、その下で最先端に立つ実力幹部。外交も軍事も、尖閣防衛もそんな人間模様の虚実の中で進められる。

現実の尖閣問題では、中国の海警船はすでに「第二海軍」である。さらに「海上民兵」までいる。敵の「軍事行動」にわが国の「警察行動」では太刀打ちできないのは明らかだ。中国海警船は海自の主砲並みの大型機関砲を搭載したものまであるという。海保巡視船の小型機関砲を使うレベルでの「危害攻撃」では、「無力」どころか自ら命の危険を招く「無謀」である。

日本は、中国の尖閣を巡る行動がエスカレートして海保の手に負えなくなれば自衛隊の出動を要請する。しかし自衛隊が現場に駆けつけても、まずは、活動の範囲は海上警備行動、治安出動という国内法の範囲内に限られる。「危害射撃」が可能だとしても警察行動の範囲であり、はっきりと武力行使を公言する中国海警法の武力行使とは大違いである。

しかも自衛隊尖閣諸島周辺に常駐しているわけではない。中国の海警船が尖閣に接近・上陸を試みたり実行したりすれば、遅れて駆け付けた自衛隊は「危害射撃」で中国“軍”を追い落とすことは不可能だ。日本が“事変”の前に「危害射撃」の構えを見せるならば、相手の横暴を抑止する多少の効果はあろうが、武力で島を占拠した後の敵を追い落とす力はない。

要するに、現実の問題として考えれば「危害射撃」の実行は容易でない。他国の仕掛ける緊急事態に対して、国内法に準拠して対応するのは現実的でない。となれば、「武力」を用いた敵の領海侵犯や島への上陸という緊急事態に対処するためには、自衛隊本来の自衛権に準じた尖閣防衛を可能にする法解釈なり法整備を行うしかないのではないか。(2021・3・27 山崎義雄)