ババン時評 日中韓の宗教的距離感

日中韓はそれぞれいくつかの異なる宗教を持っている。中国は、共産主義独裁国家にもかかわらず仏教、道教など古来の5宗教を「公認」している。韓国には、仏教、儒教などがある。日本には仏教、神道などがある。日本人は無宗教だと言われることがあるが、それは既成の宗派に属さないということで、日本人の精神的な土壌は、素朴で自然な宗教心が強く信心深い。

たまたま、菩提寺よりご恵送いただいた「臨済会」発行の『法光』(春彼岸号)を読んだ。その巻頭に「自ら調え、安寧を祈る」と題する円覚寺派管長 横田南嶺師の論稿がある。中で「怨親平等のこと」が述べられている。「怨親平等(おんしんびょうどう)」とは、『華厳経』などに説かれている言葉で、味方だけではなく敵も同様に供養する考え方だという。

例として、室町時代の「上杉禅秀の乱」(1416年。前関東管領 上杉氏憲=禅秀が鎌倉公方 足利持氏に対して起こした反乱)における多くの戦没者を敵味方の区別なく供養し「敵御方(みかた)供養塔」を建てた遊行寺藤沢市)の太空上人の例や、今、横田師が預かっておられる円覚寺が、元寇(げんこう。モンゴル帝国の日本侵攻、1274年・文永の役、1281年・弘安の役)の殉死者を敵味方なく供養しており、開山の無学祖元禅師が「怨親平等ならんことを」と言われたという。

怨親平等」の実践ということになると次元が高すぎるが、一般人の場合の倫理観としては、ひとに恨みをもたない、敵を作らない、ひとを許すということではないだろうか。「怨親平等」の仏心が日中韓の精神的な土壌の基盤にあれば、日中、日韓の揉め事の大半は解決すると思われるが、今の日中韓にはその精神的な共通基盤はなさそうだ。目下の中国では、新疆ウイグル自治区少数民族弾圧で、ジェノサイド(大量殺戮)の疑いさえ強まっている。

さて、これは実に次元の低い連想だが、「怨親平等」の思想が仏教本来の教えだとすれば、敵をつくり、徹底的にせん滅し、墓を暴いて骸を引き出しても恨みを晴らす、などと言われる中国・韓国の歴史・風習を思うにつけても、インドから中国、韓国を通って日本に渡ってきた仏教が、中国・韓国で大事な思想の配分を忘れ、日本まで持ってきてしまったのではないだろうか。

もちろん横田師の論考は日中韓を意識して書かれたものではないが、その結びで、「敵味方を分けてものを見る自分中心的な見方では、間違った認識をしてしまいます」と言われる。さらに、「怨親平等の仏心に目覚め、お互いの幸せを祈る気持ちを持ち続けることが、人間として究極ではないかと考えている次第です」と結んでおられる。(2021・4・6 山崎義雄)