ババン時評 マルクスの亡霊が出た

今、だいぶ売れている一書に、斎藤幸平著『人新世の「資本論」』(講談社新書)がある。表紙には当代きっての論客達の賛辞が並ぶ。本書のミソは、晩年のマルクスがたどり着いた(そして未公開だった)「脱成長コミュニズム」構想だ。それは、「協同的富」を共同で生産し管理するという「コモン」の思想で、資本主義における個人主義的な生産様式から脱却し、生産手段も、経済も、地球環境も(人民が?)共同管理すべきだという主張だ。

先月の『ババン時評 資本主義から「人新生」へ』でも、本書の内容から“肯定的”に少し引用したが、今回は、改めて多少の疑問を呈してみたい。本書は、現代は資本主義経済が地球を破壊する「人新世」=環境危機の時代であり、この気候変動に歯止めをかけるためには、資本主義の際限なき利潤追求を止めなければならないという。ここでは資本主義を犯人と決めつけているが、地球温暖化ガスを最高に排出している中国など共産圏経済の責任が除外されている。

本書は「はじめに」、レジ袋の削減にエコバックを使うとかペットボトル飲料を買わずマイボトルを持ち歩くなどの環境配慮は資本主義の欺瞞であり、国連、各国、大企業が推進する「SDGs=持続可能な開発目標」は資本主義のアリバイ作りであり、それで気候変動は止められないという。これは、資本主義による“排泄物”の処理を一般市民に肩代わりさせているとでも言いたげな、挑戦的な問題提起である。

一方で本書は、『我々が慣れ切った資本主義の生活を捨てて「脱成長コミュニズム」への大転換を図ることは容易ではない。それは資本主義を牛耳る1%の超富裕層に99%の人達が立ち向かう戦いでもある』と言う。しかしこの、富の偏在はまさに資本主義というより人類が直面し解決を迫られている大問題だ。『「脱成長コミュニズム」への大転換が容易でない』話とは別だろう。

しかも肝心の「脱成長コミュニズム」の実現戦略となると、『ハーヴァード大学政治学者エリカ・チェノウェスらの研究によると「3・5%」の人々が非暴力的な方法で、本気で立ち上がると、社会が大きく変わる。フィリピンのマルコス独裁を打倒した「ピープルパワー革命」など多くの事例』があるという。お寒い限りで、打つ手なしと言っているに等しい。「はじめに」、レジ袋の削減や「SDGs=持続可能な開発目標」は資本主義の欺瞞だと威勢よく飛び出しただけに、竜頭蛇尾の感はまぬがれない。

そして本書は、『資本の専制から、この地球という唯一の故郷を守ることができたなら、その時こそ肯定的にその新しい時代を「人新世」と呼べるだろう』と結論づけている。一見もっともらしい理屈だが、冒頭の「資本の専制」は「資本主義の横暴と全体主義専制」とでも言い換えるべきだろう。いずれにしても今どき、肯定的な?「人新世」実現に向かう道程にマルクスの亡霊が出てくる意味はないだろう。(2021・5・10 山崎義雄)