ババン時評 抗えぬものへの対処法

人生において、人間社会を生きていく上において、抗(あらが)い難いこと、甘んじて受容するしかないことは誰にでも起きる。強者と弱者で「勝率」に相当な開きはあるだろうが、強者といえども百戦全勝とはいかない。奢れるものは久しからず、「盛者必衰」である。その、抗いがたく避けがたいことの最たるものが「生者必衰」であり、生あるものは必ず死ぬということであろう。ところがこの“ことわり”に真っ向から挑戦するのが「シンギュラリティ」の理論である。

未来学者レイ・カーツワイルさんの説く、人工知能(AI)の加速度的な発達が「シンギュラリティ」(技術的特異点)を超えると、病気の克服や人体のサイボーグ化が進み、脳のシミュレーションにより「私の保存」も可能になるなど、AIの能力と医学のレベルが人間の老いや病気の進行を追い越すことによって、人間は不老不死になるという仮説である。

これをカーツワイルさんは「仮説」などとは思わず、2045年頃にそのシンギュラリティを迎えることになると確信する。そこで1948年生まれのカーツワイルさんは、その時まで生き延びて、永遠の命を獲得するために、あらゆるビタミン剤の多用などで涙ぐましい努力をしているとか、万一、それ以前に死んだ場合は、遺体を米国の民間機関「アルコー延命財団」で冷凍保存させておいて、シンギュラリティを迎えた時、生き返るための医術を受ける予定だと言われる。

いま売れている一書に、ジェフリー・S・ローゼンタール著、『それはあくまで偶然です』(邦訳、早川書房)がある。同書は、世の中の出来事はほとんど偶然による所産だという。そして同書は、「自分にはコントロールできないランダムな運を静穏に受け入れる力と、修正できる運を変える知識と、両者の違いを知る知恵をお与えください」―という。これは著者ローゼンタールさんの「願い」でもあるというが、万人が願う人生の要諦ではないだろうか。

コントロールできない運、つまり「変えられない運命」と、修正できる運、つまり「変えられる運命」、そしてその「両者の違いを知る知恵、判別する知恵」があれば、変えられない運命を変えようともがいて傷ついたり、変えられる運命を変えようともせず“負け犬”になったり、2つの運命の違いを知らずに対処を誤って、あたら人生を棒に振ったりしなくて済むのではないか。

シンギュラリティの真偽はさて置き、変えられる運命なら「運命」と諦めずに果敢に挑戦すべきだが、変えられない運命なら「受容」するしかない。特にその「両者の違いを知る知恵」がない場合は、余計な疑問をもたずに自らの人生を生きればいい。できれば肯定的に、人生こんなもんだろうとか、これでいいのだとか、まんざらでもなかったね、と人生おさらばの時に思えたら幸せではないか。つまりは、抗いがたいことへの対処法は抗わないことだろう。(2021・5・20 山崎義雄)