ババン時評 気にし過ぎるな運の良し悪し

コロナによる「閉塞感」は心身の健康上、実によくない。考え方がどうしても暗くなりがちだ。これでは「運」にも見放されかねない。人はよく運がいいとか悪いとか言う。どんな人格者でもまったく運の良し悪しを気にしない人はいない。宝くじを買ったりレースに賭けたり、いわゆる賭け事を一切やったことがないという人はまずいないだろう。しかしこの「運」というのは実に得体が知れない。

数十年前のコントで忘れられないのは、ネクラの相方に、物事は明るく考えろと言って、「青い空」「青い海」と言うと、ネクラが「泳ぐ」「溺れる」「死ぬ」と応える話があった。まことに物は考えようだ。その手で行くと、悪い運にからめとられないためには、他人の目を(あまり)気にしない、心配事を(あまり)考えない、自分の先行きに(あまり)不安をもたない、運のいい人を(あまり)ねたまない、運の悪そうな人とは(あまり)付き合わない、など、あまり物事に拘泥しない方がよさそうだ。

いま売れている一書に、ジェフリー・S・ローゼンタール著、『それはあくまで偶然です』(邦訳、早川書房)がある。行きつけの大型書店で見つけたのも「それはあくまで偶然です」が、くだけた書名に似つかわしくなく約460頁、2300円のけっこう立派な“体躯”で、「統計学」専門の棚に鎮座していた。

高名な統計学者であり、確率とサイエンスを信奉するクールな(はずの)著者が、世の中の出来事のほとんどが偶然による所産だというのである。たとえば「あなたが7回、雷に打たれても」それは偶然。「名選手の56試合連続安打」も偶然。「生き別れの父娘の生き方がそっくり」だったとしても、それは偶然、それもこれもランダムに発生するただの偶然だというのである。

本書は、そういう実例をざっと130例ほど挙げて、いずれの結果も偶然によって生起したことを論証するのである。そして「偶然」の立証には、統計学的な考察も使われるものの、むしろ統計学は“脇役”で、偶然がもたらす出来事の原因は、ほとんど統計学の嫌う「運と迷信」であると言う。つまり出来事は「運」や「まぐれ」によって発生し、そのもっともらしい原因として語られるのは「不吉な数」や「星占い」など迷信の類であることが多いというのだ。

ひるがえって凡俗の我が身を考えれば、著者ほどのスケールはないが、後期高齢者となるまで、それなりの運不運に揺さぶられてきた。その間、運の良し悪しを気にし過ぎるとかえって運に見放されるような気さえするようになった。そして思うのは、ものは考えよう、物事はあまり突き詰めず、ほどほどにしておけばいいのだと思えるようになった。(2021・6・1 山崎義雄)