ババン時評 「自己否定」と無常感

人間が死ぬとはどういうことか。哲学も宗教も文学でさえも永遠に解けない命題である。劇作家であり哲学者として知られた山崎正和さんが、最後の評論集『哲学漫想』を残して昨年(2020年8月)、86歳で亡くなった。業績は幅広いが、とりわけ論考を通じて人間に向ける慈悲の目、現実を無常と感じ取る「無常感」は冷徹だが温かい。

山崎さんは、人間の「身体」なるものを考察して、身体は、それ自体が一つの自然現象として、呼気と吸気、空腹と満腹、睡眠と覚醒の反復を繰り返す。そして身体は、皮膚で包まれ、一定の体重や体温を持つ。しかし「身体」はそれだけの個物なのか、例えば「眩しさ」や「喧しさ」は身体内外のどちらの現象なのかと問う。身体内外の境界や身体の外郭は不明瞭であり、空間的・時間的な身体の外延はさらに曖昧であるという。

身体の中心も見当たらず、身体・皮膚の内外、外郭も曖昧である上に、身体の働き・現象も不確実で、身体とは、ほとんど儚い存在だとしている。そして、「私」の事物性と現存在を考察し、「私」の存在の不確かさを確認し、自己否定に至り、要するに「私」とは本質的に「いわく言いがたいもの」であるとまで言う。さらには個物である身体は、外界から沁み込んで透過していくものの受容体であるとするなど、独特の身体思想を語る。

自己の存在否定で思い出したのは、たまたま恵送いただいた円覚寺派の小冊子「円覚」うらぼん号所載の、横田南嶺管長の「拝む心で生きる」話である。横田師は、禅の「公案」修行を20年間、そしてその修行を指導する師家を20数年続けている。修行時代は、公案の答えをもって師の部屋に「独参」し、叱られたり、否定されたり、竹篦(しっぺい)で打たれたりの修行を続けた。自己中心的に染みついた思い込みや考え方を取り除く「自己否定」の修行である。

そうした修行を20年続けて、ある時にふと、独参は師の室内に三拝して入り、師家を通して仏陀を礼拝するだけの礼拝の行なのだと気づいたという。これまでの公案修行はムダといえば大いなるムダ。しかし何も得るものはないと分かった時に、真に得たということだと般若経典に書かれているという。それに気づいて実に心が軽やかになった時、修行も終わりを告げていた。

話を戻すと、山崎さんが考える人間の身体は事物の「受容体」か、はたまた「濾過器」か。濾過されずに残った知識や経験は残存物かということである。その残存物さえ、日本的「無常感」の思想からすれば、意味がないということになるのか。そのあたりをどう考えて著者は人生を卒業したのであろうか。凡俗の徒は著者に問いたいところである。(2021・7・29 山崎義雄)