ババン時評 人生100年時代の性生活

前に「ババン時評 歳をとっても女は女?」(2019・6)を書いた。これは、高齢女性の「おもしろ話」を紹介したエッセイだが、あたまに置いた話が、60代の女性の「夫と性生活がなく切ない」と訴える、読売新聞の「人生相談」だ。娘も嫁ぎ孫もいて、夫とは円満。何の不満もないが「若い日の性生活を思い出してとても寂しくなる」という話だ。

回答者は、「ハートつきのスヌーピーが描かれた便箋につづられたご相談」に「少女らしい初々しさ」まで感じながら、たとえば一緒に歩くとき手をつなぐなどして、「少しずつあなたの気持ちを伝え、夫に気付いていただけたら良いかと思います」と、あまり効き目のなさそうな助言だった。

今回も、読売人生案内(9・20)の話で、「夫婦生活なし 夫が理解せず」と相談するのは70代の主婦。腰の骨を折って治ったが、医者からは「夜の生活はしないほうがよい」と言われる。自分は年も年だからそれでもかまわないと思うが、夫が理解してくれず、家の中が気まずい雰囲気になった―。という相談だ。

回答者は、もし夫との性行為を望むなら、主治医に骨に負担のかからないやり方を聞きなさい。もし望まないなら、夫と「いたわり合える他の方法」を話し合いなさい、と答えている。これもあまり相談者が納得するとは思えない。

セックスは、子作りや悦楽のためだけでなく、文学、芸術、演劇など、あらゆる表現・創造のエッセンスであり、起爆剤である。しかし高齢者にとって性の問題は、表現・創造や社会生活と縁の薄くなる中で取り残された閉鎖的、終末的な性の問題として残る。

未来学者のレイ・カーツワイルは、人間が死なないために、「非生物的人間」になれと提唱する(ポスト・ヒューマン誕生 NHK出版)。それには、人間の体に微細ロボットを注入して機械化するか、知能ロボットに人間の脳を移管するか、2つの方法があるとする。

これに哲学者の故山崎正和さんは、自著『哲学万想』(中央公論新社)で、「語るに落ちるが、カーツワイルは迂闊にも自分の非生物的分身を造るにあたって、消化器官は要らないが皮膚は残したいと漏らしている。食欲より性欲を重視している、と笑っている。

カーツワイルは、性の悦楽のために「皮膚感覚」を残したいというのだから正にお笑いだが、人生100歳時代はますます高齢者の性の悩みが増える。どのように性に向き合うかは個々人の問題だが、高齢期における愛情を忘れた皮膚感覚の追及は、人生の終盤を惨めにするだけだろう。(2021・10・4 山崎義雄)