ババン時評 この世とあの世の境を覗けば

本題は臨死体験の話だが、その前にこんな話を一つ。つい最近、左目の手術を受けた。糖尿病性の網膜症による硝子体手術だった。以前は目玉に麻酔の注射を打ったという話も聞くが、今はそんな恐ろしいことはなく、担当医師の技量にもよるだろうが全く痛みのない手術だった。言いたいのはその手術の最中に見た、眼前に広がる鮮やかなブルー系を中心とした光の乱舞である。

それは、絵描きの端くれである私が、いつも描きたいと願っている見事な色調のパノラマである。こんなに豊かな光に包まれて死を迎えるなら、案外、死も楽しいのではないかなどと思いながら、だいぶ昔に観た映画を思い出した。その洋画の重要人物が、ベッドに横たわって好みの大自然の映像パノラマに包まれながら死を迎えるラストシーンである。

週刊ポスト』(3月4日号)が『「三途の川」からの帰還者が見た風景』と題して臨死体験を特集している。そのリードにこうある。「人は死んだらどこに行くのか―。人類にとって永遠の疑問である。「あの世」の正体を解き明かすカギのひとつに、臨死体験がある。生死の境をさまよい、現世に帰還した者たちが、その時に見た光景を明かした」―。

中見出しなどから拾うと、「銀河に包まれる感じ」で「気持ちいいから早く死にたい」くらいだった(映画監督・園子温氏 60)。「一面ピンクの花が咲いていた」「額縁に腰かけて花畑を見た」(芸能レポーター前田忠明氏 80)。一面花畑の「丘の上の大樹から呼ぶ声が」した。「大樹にたどり着いたら死んでいた」だろう(元プロレスラー・大仁田厚氏 64)。「体が浮いて」「見下ろすとベッドに寝ている自分が見えた」(医師・西本真司氏)。3日間「本当の意識不明」「やっぱりあの世はない」「無になれるという確信は私にとって救い」(作家・中村うさぎ氏 63)。

私にも30年ほど前、50歳代のころの臨死体験がある。私はJRのK駅ホームで失神した。あたり一面、極彩色の花畑で実にいい気持で寝転んでいた。ガタガタという不愉快な振動を体に受けて正気を取り戻したら、駅構内のコンコースをストレッチャーに載せられて、救急車に運ばれる途中だった。

近くの都立病院に運ばれて診断を受けたが異常なしとされて帰宅。大好物の芋焼酎のお湯割りを数杯呑んだあたりで、気持ちが悪くなってトイレに駆け込んだ。驚くほど大量の下血があった。翌日、病院にいったら、もう少し下血量が多かったら命に関わったと、数字を上げて説明された。

私は、若いころから「あの世はない、この世では生かされる間生きていくだけだ」と考え、死をあまり恐ろしいと考えたことはない。死に際して「死にたくない」などと慌てたりすることはない(と思う)。大学の頃、縁あって禅寺に転がり込んで3年ほど居候した。格別修行したわけではないが、禅寺の体験から少しは影響を受けているのかもしれない。(2022・3・14 山崎義雄)