ババン時評 日本語をダメにするデジタル

子供の頃、読んだ本で気に入った場面や挿絵などが何ページ辺りにあったか、なんとなく覚えていたものだ。そんな記憶のある人は案外多いのではないだろうか。大人になっても読んだ本の必要な個所は案外、容易に開けるものである。本という紙に定着した内容は、そういう形で脳内に確かな位置を占め、記憶を定着させる。これが「紙」の持つ大きな特性である。

いま学校現場で、現実にデジタル教科書の本格導入が進んでおり、デジタル教科書の役割や学習用端末の使い方について論議が展開されているが、未だにデジタルへの疑問も投げかけられている。大方の意見は、紙の教科書を中心に、デジタル教科書を補助的に使うべきだとするものだが、どちらも立てるような“半端なこと”でいいのだろうか。

そんな折りに、胸のすく論考が目についた。(デジタルの)「本格導入 子どもにリスク」というミシェル・デミュルジェ氏(仏国立衛生医学研究所研究員)の意見である(読売新聞5・17)。氏の専門分野は、認知神経科学で、損傷を受けた脳の機能回復について研究しているという。そこで氏は、教育の急激なデジタル化に警鐘を鳴らす『デジタル馬鹿』(花伝社)を上梓した。

その『デジタル馬鹿』では、子どもたちがデジタル画面を見続けた結果、言語力・集中力・記憶力が損なわれる上に睡眠不足などのリスクを招くとして、科学的な検証データをもとに考察する。同書は欧州や南米、アジアなど12カ国で出版され、日本でも教育関係者や小児科医らから「現場で感じていることをよく書いてくれた」と共感する声が寄せられているという。

それなのになぜ今、日本では1人1台学習用端末を導入するのか疑問だと氏は言う。諸外国では20年以上も前から導入され、目に見える効果が得られなかったことを多くの文献が示しているという。例えばフランスでは、国家財政を監査する会計院が、「巨費を無駄に費やした」と指摘した。スペインでは、端末が配られた子供の成績が全教科で下がってしまったという。

一方、紙の本を読むと脳内で、内容の地図とも言えるイメージマップが構築される。紙の本には空間的な統一性があり、端末で読むよりも頭の中で内容をイメージしやすい。したがって、デジタル教科書の安易な導入は危険が大きい。子供たちのために、デジタル教科書の本格導入に当たり、さまざまなリスクについて科学的な知見に基づいて再検討すべきだと氏は警鐘を鳴らす。

痛快なデジタル教科書再考論である。教科書はやめて、デジタル技術の習得は別建てで考えればよい。特に日本語の場合は、デジタル教科書と折り合いが悪い。論理的な欧米言語と違って、日本語の場合は情感を重んじ、言葉の深い意味や言外の味わいを文脈から推しはかる。それには活字を読み、行間を読む努力の積み重ねが必要だろう。デジタル教科書は日本語の本質をダメにする恐れがある。(2020・5・18 山崎義雄)