ババン時評 揺れる、沖縄の“立ち位置”

沖縄返還50周年は、とりあえずはお祝いムードでやり過ごされた感がある。記念式典で、岸田首相は、在日米軍施設・区域の整理・統合・縮小を進めていると言い、玉城沖縄県知事は、本土復帰時の国の約束、「沖縄を平和の島とする」目標がいまだ達成されていないと述べた。問題の「基地機能」についてはお互い一言も触れずじまいだ。

沖縄返還当時、ニクソン米大統領は、佐藤栄作首相との間で、沖縄返還の見返りに、日本が台湾海峡朝鮮半島など極東地域の安全保障でより大きな役割を果たすことで合意ができたものと考えていた。ところが、日本は長らくそれを放置した。ニクソン氏は騙されたと怒っていたという。そして、日米は、ようやく97年の「防衛協力指針(ガイドライン)」の見直しで、「周辺事態」での協力に合意した。これこそニクソン氏が求めていたことだった(読売新聞、5・16 米戦略国際問題研究所CSIS上級副所長 マイケル・グリーン氏)。

半世紀前の日本に「台湾海峡朝鮮半島など極東地域の安全」に対処する自覚はなかっただろう。いまでもその自覚が確かにあるとは言い切れない。一方で、佐藤首相は、米国の要求に屈し、非核三原則に背いて、米国による有事の核持ち込みを許す密約を結んだ。その日米の裏工作を担当したのは当時の大阪産業大学 若泉敬教授だ。

逆に表舞台で、佐藤内閣のブレーンとして、「沖縄基地問題研究会」の報告書をまとめ、「格抜き・本土並み」の沖縄返還につなげたのは当時 京大教授で国際政治学者の高坂正尭だった。そのウラで佐藤は、ブレーンの一人だった若泉敬を密使として、米側が強く求める「核密約」を交わしていたのである。ここが佐藤の狷介なところで、高坂は後々までこれを知らなかったという(服部龍二 著『高坂正尭』)。

朝日新聞(5・15)は、社説「沖縄復帰50年 いったい日本とは何なのか」と題し、50年前の復帰記念式典で、佐藤首相は「今日以降、わたくしたちは同胞相(あい)寄って、喜びと悲しみをともにわかちあうことができる」と述べた、として、この言葉をウソにしてはならない。責任は本土の側にあると主張した。しかし、仲井真弘多沖縄県知事(当時)は、2013年に、安倍晋三首相(当時)との間で、普天間飛行場の移設にともなう辺野古埋め立てを承認しているのである。国との約束を反故にした県の責任は問われないのか。

そして返還50周年に当たって玉城知事は「アジア太平洋地域の持続的安定と平和に貢献する」とも言及した。どのようにその貢献を実現するのか、県側は、まずは国との不毛な対立を解消して打開策を打ち出すべきだ。キナ臭さの漂う世界とアジア情勢の下で、沖縄基地の立ち位置が定まらないまま、迷走を続けている場合ではないだろう。(2022・5・29 山崎義雄)