ババン時評 歌は世につれ、世は歌につれ

今はあまり聞かれなくなったが、「歌は世につれ、世は歌につれ」という成句がある。若者が同世代の歌を聞いている分には、そんな感覚はないかもしれないが、後期高齢者ともなると、己の来し方と重ね、時代の流れの中で聞いた、そして歌った多くの歌の意味、味わいがいよいよ深くなり、「歌は世につれ、世は歌につれ」という感慨がますます強く、時に切なく胸に去来する。

たまたま読売新聞(5・3)の、「関心あり! 昭和の流行曲 若者に響く 趣のある歌詞」という記事が目についた。取材に当たった記者は、「昭和に流行した曲が時代を超えて若者の心をつかんでいる」という。ウエブで音楽サイトを運営する I さんは、「いろいろな解釈ができる行間を読む歌詞に趣を感じる」と言い、例えばペトロ&カプリシャスの「ジョニィへの伝言」は、「ジョニィに本当は何を伝えたいのか、聞く人によって解釈が分かれる」点を魅力として挙げる。

記事も指摘するように、昭和の時代は、専業の作詞家と作曲家が手がけた曲を、歌唱力のある歌手が歌うという作り方であった。それによって誰もが知る名曲が次々と生まれた時代だった。情景が浮かぶ歌詞や耳に残るイントロは、「過剰なまでに大衆性を意識した時代」のたまものだった。そして、「シンガー・ソングライターが増え、音楽ジャンルも細分化した現代においても、その完成度の高さに引かれる若者が多いのでは」と指摘する。

しかし、言わせてもらえば、記事のようにペトロ&カプリシャスや、岩崎宏美松田聖子などという比較的若い歌い手で昭和歌謡を代表されては、後期高齢者の当方としてはがっかりするのである。とりわけ演歌好きの当方としては、例えば戦後では、霧島昇 藤山一郎 田端義夫 二葉あき子 近江敏郎 伊藤久男 美空ひばり 島倉千代子 村田英雄 三波春夫 春日八郎 青木光一 小林旭 北島三郎 大川栄策、といった辺りを挙げてもらいたいのである。

それにしても歌謡曲は、長らく「はやり歌」として軽視されてきた。戦後の焼け跡で歌われ始めた「リンゴの唄」など多くの歌が、俗悪な流行歌としてけなされ(園部三郎『民衆音楽論』三一書房刊、古本)、低俗な「流行歌」とみなされて、(NHKあたりによって?)「歌謡曲」と言い換えられたりしながらも、大衆の心に沁み込んで「歌は世につれ、世は歌につれ」て、時代の流れをつくってきたのである。

また、「歌は世につれ」ても、「世は歌につれ」たりすることはないという反論もあるが、歌い継がれる歌は単なる「過去形」ではなく、未来に向かう予感を含む時代感覚を持っている。そして心に残る歌は、人生の陰影を色濃く滲ませながら多くの人の共感を得て時代の流れを形作っていく。それが歌の本質ではないだろうか。(2022・6・2 山崎義雄)