ババン時評 “無思想犯”の出没する社会

「安倍(元首相)は直接の敵ではない」と言いながらその命を奪うという理不尽で許しがたい暗殺事件から間もなく1カ月となる。先に、「ババン時評 安倍氏逝く 未熟な男の凶行」を書いた(7・9)。なにしろ犯行翌日の感想だから、犯人像の分析が甘かった。当然ながら、真実が分かってくれば、犯人の山上徹也なる男もそうそう単純な人間ではない。もしこの男が別の手段で世に訴えたら、この男の境遇と、悲観や苦悩も理解されたかもしれない。しかしこの男は最悪の手段を選んだ。

また、この男を「未熟な男」と表現したのには別の理由がある。それは、当初から学者やそのスジの専門家といわれる(一部の)人のご高見やマスコミの論調に抵抗感があったからだ。つまり、事件当初から(そしていまだに消えない)、そうした方々による、この犯行を「許しがたいテロ、卑劣な凶行、無法な言論封殺」などと断じる常套的で高踏的な見立てとそれに呼応するマスコミの論調である。

今でも当方には、この男は思想犯的な思考操作ができる人間ではない、簡単に言えば、大した代物ではない、との思いが強い。だから先にも、警視庁によるテロの定義を借りて犯人の所業はテロに当たらないとした。そのテロの定義とは、「広く恐怖又は不安を抱かせることによりその目的を達成することを意図して行われる政治上その他の主義主張に基づく暴力主義的破壊活動」である。そのような御大層な?意図をもってこの男が犯行に及んだとは考えられない。

政治家の小沢一郎氏は、この事件について、「大変残念で心からお悔やみ申し上げます」と安倍氏の死を悼んだ上ではあるが、「端的に言えば、自民党の長期政権が招いた事件と言わざるを得ない」と述べ、さらに「長い政権が日本の社会をゆがめ、格差が拡大し、国民の政治不信を招き、その中から過激な者が暗殺に走った」と述べて物議をかもした。しかしこれは小沢氏の政治的発言であり、今回の「過激な者」がそう考えて暗殺に走ったわけではない。

これはウィキペディア経由の孫引きだが、「日大教授の福田充は、この事件が起こったのが参院選の最中であることから、銃撃には安倍や自民党の政治姿勢に対する抗議の意図があったと分析できると指摘しつつ、民主主義という現代政治の根幹を破壊する行為(テロリズム)であり容認できないとも述べている」という。これも定型思考による勘違いだ。

今、事件を置き去りにして?過去にも問題になってきた怪しげな宗教団体・元統一教会と政界の癒着が世間の耳目を集めるに至った。結果論で言えば、今回の犯人は、先の、警視庁のテロ定義に相当程度当てはまるテロ犯にも見えてくる。もちろん犯人にその意図はなかったはずだからテロ犯とは言えまい。同時に、無法な言論封殺などとも無縁であり、「言論・表現の自由」への挑戦などという高邁な?思想や意識とは無関係の犯行である。このような“無思想犯”が出没する社会現象をどう捉えるべきか。それを真剣に考え、手立てを講じなければ安倍氏は浮かばれまい。(2022・8・3 山崎義雄)