ババン時評 要するに「分かる憲法9条」に

 ようやく衆参院憲法審査会がぼちぼち開かれるようになったが、自由討議とやらで論点の定まらない論議に終始している。亡くなった安倍元首相は、(自衛隊員に対して)「憲法違反かもしれないが、何かあれば命を張ってくれ」とは言えないとして、憲法9条に自衛隊の存在を明記したいという持論を繰り返した。

憲法違反かも知れない」なら、それを論議するのがスジだろう。大方の憲法学者が言うように、自衛隊違憲だというなら「合憲化」するための憲法改正論議をすべきだ。安倍元首相の本心もそこにあったと思うが、そこまで持って行くのは容易ではないと見て、憲法9条2項の付加条項として自衛隊の存在を明確にしたいと考えたのだろう。だが今こそ本当の改憲論議すべき時ではないだろうか。

そもそも「憲法違反かもしれない」という問題の核心は、言うまでもなく、9条2項が掲げる「戦力の不保持」である。しかし、いまわが国は、中国、北朝鮮などがもたらすただならぬ国際緊張の中で新兵器の導入を急いでいる。敵基地の攻撃も可能にするミサイル迎撃システムなどの新兵器も、「自衛のための戦力」だから憲法9条2項にいうところの「戦力」ではないと言うような「解釈改憲」で常識的な国民の納得を得るのは容易ではないだろう。

この苦し紛れの理屈を70年以上も重ねてきたのがわが国の憲法9条である。憲法9条の“病根”は深い。戦後、現憲法の草創に携わった首相吉田茂は、憲法9条の政府案が上程されたばかりの衆議院で、共産党野坂参三議員による自衛のための「正しい戦争」論に対して、「国家正当防衛権」を認めると「戦争を誘発する」から、「正当防衛権」は「有害」であると断言した。その吉田は、間もなくそこから“真逆”の方向、いわゆる「解釈合憲」にシフトしていった。

以来今日まで、実に70年以上も憲法9条解釈は吉田流の“迷走”を繰り返しているのである。いわば憲法9条2項が“病根”であり宿痾(しゅくあ=長年の病気、持病)である。この病根を放っておいて、自衛隊の“健康”に太鼓判を押そうという安倍元首相の条文加憲案が問題なのだ。自衛隊は“健康でない”と国民が審判を下したらどうなるか。安倍氏は国会答弁で、自衛隊明記案がたとえ国民投票で否決されても自衛隊は合憲だという政府の立場は変わらないとも言った。無茶苦茶な言い分ではないか。

安倍氏遺言の“加憲”案では、どこまでも9条2項の「戦力不保持」が問題となり続ける。それを避けるためには、「自衛のための戦力保持」を正当化するという選択肢を挙げてまともに論議すべきではないか。幸いにも?改憲に先行して安倍元首相が遺した安保関連法があり、「反撃能力」が容認される時流になってきている。今こそ本気で国民に分かる「明快な憲法9条」を考える時ではないだろうか。(2022・11・12 山崎義雄)