ババン時評 死にゆく人が求めるもの

よく「自殺する」ことの前置きに「世をはかなんで」という決まり文句が使われる。その意味は、この世を頼りなく空しく思って死を選ぶということになるのだが、これではあまりに観念的で自殺者の深刻な状況とかけ離れているように思われる。近年の自殺者数は打たれ強い?男性では減少しているもののコロナの影響もあって弱い?女性では増えている。自殺者は人間関係で孤立して精神的に孤独になり、絶望してあるいははかなんで、求めるものもすがるものも失ってあるいは捨てて死を選ぶ。

一方、自殺とは対極にある自然死の迎え方は緩やかだ。当方のようにいいかげん長生きしていると意外にぽっくり逝く友人知人を見送ることが少なくない。円覚寺派機関誌『円覚』正月号に漢方医 桜井竜生氏の『死にゆく人が求めるもの』の一文があり、その中にこんな一節がある。「多くの人が弱って亡くなる場に立ち会ったが皆同じ順序で欲を捨てていくようだ。体が弱ると皆食欲が無くなる。運動したいとも思わなくなる。その次はお金の欲、次に異性の欲を捨てていく。そして家族に会いたいという気持ちも少しずつ無くなっていく―。

この「家族に会いたいという気持ちも少しずつ無くなっていく」ということは凡俗には思いがけない指摘であり、はかなく切ない指摘である。そして最後に残る楽しさは自然に触れることのようだ。ただ風を感じる。星空を観る。緑を観て触れるだけでそこから皆何かを感じ取っていたと言い、氏は、亡くなる患者さんと何度か病室の窓を開けそこから入ってくる風の気持ちよさについて話したことがあると書いている。

だいぶ昔の私事だが、後ろ手を組み小腰をかがめて庭の鉢植えを観ている祖父の横に、何もわからない幼稚園児のわが息子が祖父の姿をそっくり真似て後ろ手を組んで立っているのをみて笑ったことがある。俗臭の抜けない当方としてもそれなりに枯れてくると、老人が動かない草花に思いを寄せその風情をめでる心情が少しずつ分かるようになってくる。多分それが得難く幸せな人生の終盤なのであろう。

以前にも引用した小説「イモータル」(萩耿介著 中央公論新社)の最後にこんな場面がある。「突然、老人の顔がゆがむ。悔恨の日々が蘇り、肩が震え、胸が張り裂けそうになる。首をうな垂れ、本を持つ手も揺れ、こみ上げてくるものと戦っている。涙ではない。涙ごときで埋め合わされるはずがない。深い屈辱と恥辱と、わずかばかりの栄光が唸りを上げて襲いかかる―」。こんなすさまじい人生の終末を迎える心配のない生き方をしてきたつもりの当方ではあるが、土壇場で何が起きるかまだ分からない。小説の老人も最後は「微笑んで、幸せな笑顔で」本を閉じるのだが、願わくはそうありたいものだ。(2023・1・3 山崎義雄)