ババン時評 東北弁の持つ劣等感と誇り

 東北出身の高齢者で若いころ東京に出てきた人には、生まれ故郷のズーズー弁に劣等感を持つ人が多い。しかし、美しい日本語の代表が仮に東京弁や京都弁で、その反対が河内弁や広島弁だとすると、東北弁の好感度は中クラスだろう。少なくとも嫌われてはいない。

方言には出身地による「地方的方言」だけではなく、階級における「社会的方言」があると言う。確かに同じ江戸でも武士と町人の「社会的方言」で話が噛み合わない笑い話が落語などにある。しかし一般に方言といえば「地方的方言」だろう。

浅田次郎の小説には「地方的方言」がふんだんに出てくる。映画やテレビドラマにもなった『壬生義士伝』では、貧困から南部藩を脱藩して新選組隊士となった主人公・吉村寛一郎が南部弁丸出しで話す。そして北辰一刀流免許皆伝の腕前を生かして人斬りも厭わず金を稼ぎ、妻子のために送金し続ける。しかし人柄は朴訥で常に腰が低iい。

その寛一郎の口をついて出る言葉に「おもさげながんす」がある。「申し訳ありません」という最上級の詫び言葉だ。寛一郎は、常に「おもさげながんす」と言いながら稼いで生きて、最後は鳥羽伏見の戦いに敗れて大阪の南部藩藩邸にたどり着き、義と意地を貫いて切腹して果てる。

「おもさげながんす」に似て、身を低くする南部弁に「おしょすい」がある。多分、「笑止」から「お笑止い」「おしょしい」と転じたものであろう。笑い者になる、恥ずかしい、という意味だ。「おでーらに」は「お平らに」、穏やかに、興奮しないでという意味だ。こうした自己卑下や穏やかさを求める言葉、自らの身を律する言葉は東北弁に多い。逆に、人をそしる言葉、馬鹿、アホ、間抜けなどは、純粋な東北弁がなく、標準語など他所からの借りものだ。

東北人の気質は、総じていえば、忍耐、根気、寛容、無口などの自制的な気質が強い。学習院大教授の赤坂憲雄氏は「東北学」で大変な著作を持つが、持論として、名古屋、京都、福岡などは「中世以来のケガレや差別の風土を濃密に持つが、東北には差別がない」と言っている。確かに東北はたとえば「部落」という言葉も普通の「集落」の意味で使う。東北人は、こうした穏やかな東北弁に、東北人らしく内に秘めた誇りを持っていいのではないか。(2002・3・10 山崎義雄)