ババン時評 非生命体化する人間?

断っておくが、この小論はパラリンピック賛歌であり、パラリンピック競技者が非生命体化するなどという話ではない。パラリンピックの競技内容は実に多彩で驚きに満ちている。そこにあるのは正に生命の躍動だ。パラリンピック視覚障害聴覚障害、身体障害、知的障害、精神障害などのハンディを持つ障碍者のスポーツだが、主体はあくまで競技者個々人であり、競技は個の人間の命の燃焼だ。

今回の東京パラリンピックにおける競技は、22競技539種目に及ぶという。先に行われた東京オリンピックの33競技339種目に比べれば、競技数が少ないのに種目数が多い。それだけ各競技における身体能力に応じたランク分けを行わないと公平・公正な戦いができない。

その上で、伴走者など多くのアシスタントの手も借りるし、義手・義足や車いすなど競技者の欠陥を補うためにますます高機能化していく補助具の世話にもなる。しかしどれほど多様で高度な機具に頼ろうが、主体はロボットや補助器具ではなく人格を持つ生命体としての人間だ。

そこで、非生命体化する人間の話だが、未来学者のレイ・カーツワイルは、2045年あたりに人工知能(AI)のもたらすシンギュラリティー(技術的特異点)を迎え、医療の進化が平均寿命を超越して人間は死ななくなると予測する。本人は大真面目なのだろうが、その日まで生き延びようとビタミンを大量に飲むとか、シンギュラリティ以前に死を迎えた時のために脳の預け先を予約するなど、涙ぐましい努力をしている。

そして彼は、死ぬことのない「非生物的人間」の創造についても語っている。その実現には2つの方法があり、1つは、人間の体に微細ロボットを埋め込んで人間を機械化する方法と、いま1つは逆に、知能ロボットに人間の精神能力を埋め込む方法だ。こうして作られた非生物的人間は永遠に生きることになる。

このカーツワイルの非生物的人間創造論について、故山崎正和さんは著書「哲学漫想」(中央公論新社)で、非生物的人間は個人として永遠に生きるわけで、世代交代もなくなり歴史は凍結状態に入ると言い、人類の歴史は個人の死と世代交代で発展してきたと言う。

いかに遺伝子組み換えや人体の“部品交換”など医療テクノロジーが進んでも、「非生物的人間」に生きる喜びはない。たとえ身体に障害があろうとも、たとえハイ・テクノロジーの機械・機具に補助されようとも、根本は個々の人間の生命の躍動であり、個の人間の命の燃焼だ。AI時代がどこまで進化しようとも、生身の人間、限りある命の燃焼が万人の生き方の根本原理だろう。(2021・9・5 山崎義雄)