ババン時評 問われる総理大臣の人間力

なんと、自民党総裁選について書いたばかりだった(9月1日「国の大計を語らぬ総裁選」)が、突発的?な「菅首相退陣表明」(9月4日)には驚かされた。直前まで下村博文政調会長に総裁選出馬を断念させ、ライバル岸田候補の目玉戦略・党人事刷新案を拝借して二階幹事長の交代を働きかけるなど(8月30日)、意欲的・強権的に動いていたのに、である。

また菅首相は、党役員人事と内閣改造を行って9月中旬に衆院解散に踏み切り、総裁選はその後にする意向だと毎日新聞に報じられた(8月31日)。しかし翌朝、菅首相衆院解散も総裁選先送りもしないと否定した。解散権という伝家の宝刀を抜きかけてやめたということなら、このあたりがケチの付きはじめか。

菅首相には東北人の朴訥・強直な一面と共に孤独な影が付きまとっていた。老獪な長老議員からは「注意」や「指導」を受けるだけで、心を許して「相談」できる相手、率直な「助言」を聞ける側近が菅氏にはいなかった。田舎の同級生がテレビで、菅のそばに菅がいたら、もう少しやれたかもしれない、と話していたのが印象に残る。

いきなりだが、ドイツの社会学者・経済学者のマックス・ウェーバーは、支配の形には「合法的支配」「伝統的支配」「カリスマ的支配」の3つの型があると言った。菅首相はその類型のどれにも多少は当てはまりそうだが、時として癇癪を起こして周囲を怖がらせることがあったというから、人気の低下と孤立無援の中で「カリスマ的支配」の色合いを強めていったように見える。

ついでに言えば?岸田氏は、国民の声をメモした手帳をひらひらさせながら、国民の意見を聞くことを強調しているが、それを強調し過ぎると無責任な政治や政治の低俗化を招く恐れもある。新人議員なら選挙民の声を聞くことが第一だが、総理総裁を目指すものは「国民の目線」より「己の目線」を提示すべきだろう。

先のマックス・ウェーバーは、政治家の資質として、「責任感」「情熱」「判断力」を挙げる。菅首相も政治家として当然持っていたはずのこの3つの資質を、残念ながら発揮しつくすことができずに退陣する。後を襲って河野太郎氏、高市早苗氏が立候補する。石破茂氏は未定。ウェーバーの教える政治家の人間的な資質が問われる。

結局は、政治家といえども、“政治力”の前に“人間力”が問われるのではないか。その政治家が生きてきた「人生」と「人柄」が基盤となって「責任感」「情熱」「判断力」が生まれることになる。そして選挙民はマスコミを通してしか政治家の人物を知るすべがない。マスコミの責任も問われるのではないか。(2021・9・8 山崎義雄)