ババン時評 「話し方」と「聞き方」の力関係

日韓首脳会談などで評価を挙げた岸田首相だったが、通常国会が終わってみれば、拙速なLGBT法の成立などで評判が芳しくない。2021年秋の総裁就任当時は「聞く力」をアピールして、聞いたことは何でも記録していると愛用の手帳をかざしたりする姿をテレビで拝見したが、近ごろはとみに「聞く力」が衰えたようだ。閣僚や側近の不祥事やら舌禍事件やらに加えて、まったく聞く耳持たないような強気の言動や政局運営が目立つようになった。

先に当欄で「テレビ報道の政治的公平性」を取り上げた(5・12)。そこでは「理屈や言葉に最も鋭敏でなければならないはずの国会議員が、つまらない失言で世の非難を浴びるのはなぜなのだろう」と切り出し、話の接ぎ穂に直近に起きた2つの例を引いた。1つは立憲民主党小西洋之参院議員による、憲法審の毎週開催は「サルのやること」と発言した例と、いま1つは、安倍政権時に総務相だった当時の高市早苗氏の国会答弁が蒸し返された例である。当時の高市氏が国会で答弁した、放送法の「政治的公平」についての新解釈が、総務省幹部の事前レクに基づくものであったことがバレて、今次の国会で追及されながらその事実を否定して「私の答弁が信用できないなら、もう質問しないでください」と答弁してモメた事例である。

小西議員の「サル」発言の真意はいまひとつ分からないが、本気で憲法改正を考えるなら、毎週開くほど新規の勉強ができるはずがない、サルのように何も考えずに惰性で毎週集まってもしょうがない、といったあたりの気持ちで言ったのだろうが、これは集まりの好きなサルが聞いたら怒ること必定のサルに失礼な比喩である。一方、高市議員の、信用できないなら質問するなというのは暴論で、信用できないことを質問をして真偽を確かめるのは議員の務めであり民主主義のイロハではないか。ご両人とも、自らの「話す力」に過信があるが故のフライング的発言であろう。

失業中の石原伸晃氏が、関係者の意向を無視していきなり次の衆院選は出馬せず、その次の参院選に東京から立候補すると公表して関係筋の総スカンを食っている。政治家の舌禍事件の断トツ1位は森喜朗氏だが、石原伸晃氏の父君・石原慎太郎氏も相当なものだった。森氏は内々の会合などで参加者へのサービス精神で面白いことを言おうとする傾向が強いが、石原慎太郎氏は一般社会に向けて公言することが多い。慎太郎氏の問題発言は波及効果まで想定した確信犯的失言・高言で、マスコミ受けはしたが森発言より罪は重いというべきところがある。

石原伸晃氏の参院出馬宣言も公言・高言の効果を狙った父親譲りのDNAがなせるワザかもしれないが、こういうはったりをかますような発言は、政治家としての誠実さと慎重さの欠落を疑われ、世を惑わして本人にとっても選挙民にとっても問題があるのではないか。―要するに、「話し方」と「聞き方」の力関係はバランスの取れたものでなければならないということをもう少し書きたかったのだが、話の途中で指数が尽きた。いずれ続きを書きたい。(2023・7・8 山崎義雄)