ババン時評 溶けない日韓の“しこり”

安倍首相は、国会冒頭の施政方針演説で、中国やロシアともうまく行っているとしながら、韓国については、一言も触れなかった。韓国は、日本の自衛艦へのレーダー照射問題にケリをつけないまま、新たに、自衛隊機が韓国艦船に対して“脅し飛行”をしたと難癖をつけてきた。

韓国は、慰安婦や徴用工問題でも、せっかくの政治的決着を政権が変わるたびに覆して日本に謝罪を要求する。日本は、呉越同舟で異例の政権ともいえる自社さ連合政権時の1994年、植民地支配を詫びる村山首相談話を発表し、これを今日に至るまで日本政府の公式発言としている。

村山談話に先立つ国会決議で、韓国への“謝罪法案”は賛成230名で可決されたが、反対も含めて与野党の欠席者が約241名だったという。韓国流の“豹変外交”をマネるなら、村山談話に修正を加えるどころか、「取り消しだ」と言うことさえあり得る。しかしそれは外交の非常識、世界の非常識だ。なにより良好な日韓関係を望む日本としては、こちらから喧嘩を売るようなことはしたくない。そう考えるから、レーダー照射問題でも、これ以上言ってもしょうがないと諦めたのだ。

ところが、韓国国会で国防委員長の安圭伯氏なるご仁は、自国艦のレーダー照射を否定し、日本の哨戒機の危険な低空飛行を主張したうえで、「国内の葛藤を外部に向けようとする安倍首相」は、「壬辰倭乱(朝鮮側の呼称)、文禄・慶長の役を起こした豊臣秀吉と重なって見える」と言ったという。時代錯誤の突飛な比喩にはあきれるばかりだ。

もう少し新しい話を引き合いに出すなら、明治維新後の江華島事件(1875年、朝鮮半島江華島付近で水路調査などを行っていた日本艦「雲揚」の端艇が陸上砲台から砲撃され応戦した事件)がある。日本の教科書では、朝鮮を植民地に取る目的で日本が仕掛けた事件だと自虐史観で説明されるが、実際は、朝鮮が軽率に仕掛けた軍事衝突だったことは、今日では明らかだ。

「激動の近現代史」(宮崎正弘×渡辺惣樹 著 ビジネス社)は、朝鮮の独立に関してこう記している。日清戦争後の講和条約である下関条約は、第1条で朝鮮の問題を取り上げ、「清国は朝鮮国の完全無欠なる独立自主の国たることを確認(中略)、朝鮮国より清国に対する貢献典礼等は将来全く之を廃止すべし」と規定している。これが朝鮮の独立と近代化を願った2つの国、日本とアメリカの共同作業によって、真の「朝鮮開国」をなしえた瞬間だった。『この日米両国の輝かしい歴史が、戦後の「自虐史観」によって忘れ去られている』と同書は嘆いている。(2019・1・29 山崎義雄)

ババン時評 増殖する倫理欠陥リーダー

 

なんと、仏政府が日本政府側に、日産自とルノー資本提携を求めてきたという。ルノー筆頭株主である仏国家は、日本の政府筋を動かして「ゴーン後」も“おいしい”日産を確実に掌握したいのだろうが、レキとした民間企業の日産を巡って日本の政府筋がどうこうできるはずがない。

日産は、「ゴーン後」の経営体制を立て直すために、特別委員会を発足させたという。外部有識者社外取締役7人による「ガバナンス(企業統治)改善特別委員会」である。初会合の後の記者会見の模様を各紙が一斉に報じた。2人の共同委員長、榊原定征氏(前経団連会長)と西岡清一郎氏(弁護士)の発言を紙面で見ると、各紙記者の“筆さばき”に微妙な違いがある。

朝日では、榊原氏は「人事権や報酬決定権がすべて一人に集中していた」と不正の背景を指摘した。西岡氏は、「企業の経営者としての倫理観に問題があったと素朴な感想をもった」と述べたとある。

読売では、榊原氏は「(ゴーン被告の不正を)チェックする体制は形としてはあったが、機能していなかった」とし、西岡氏は「一人の人間に権限が集中したことが問題」と述べたとある。

日経では、西岡氏は、「(ゴーン元会長の不正は)経営者の倫理としていかがなものか。一人に権限が集中したのが問題と認識している」と述べた。榊原氏は「ゴーン元会長の実績を考えると不正は想像を超えた事態だ」と指摘したとある。

発言要旨の捉え方や表現の違いを気にしなければ、総じて、ゴーン氏の1強体制と倫理観の欠如を指摘していることになる。これらの発言のなかで飛び切り良いのは、西岡氏の、「企業の経営者としての倫理観に問題があったと素朴な感想をもった」という発言だ。真実と法理を第一義とする元検事で弁護士 西岡氏の、“らしからぬ”「素朴な感想」は、庶民的で常識的な「感想」とマッチするところが良い。

昨年相次いだ大手企業や中央省庁の不正の根も、つきつめれば「ガバナンス(企業統治の欠陥)ではなく、すべて「倫理観の欠如」にある。ならば企業にも官庁にもそれぞれの組織に相応しい具体的な「倫理基準」が必要ではないか。それに基づいてトップ層の「言動」を厳しく評定する。欧米流の「ガバナンス」という管理ないし監視制度より、日本的・道徳的な「倫理規定」や「行動基準」が必要ではないか。(2019・1・25 山崎義雄)

ババン時評 “じゃんけん経済”の行方

 

数年前の話だが、ある懇親会で、ある町の教育委員長と同じテーブルで隣り合った。賞品当て抽選会になって、何かの賞品をじゃんけんで決めることになった。途端に、愉快に“メートル”を上げていたその教育長が、「じゃんけんは民主主義じゃない」と叫んだ。訳の分からない“異議申し立て”に周りが笑った。

私は「なんでじゃんけんは民主主義じゃないんですか」と聞いてみた。教育長の答えは「じゃんけんは、勝ちたい、負けたくないという気持ちで争うから」というものであった。まさに“なぞなぞ”である。私は「うーん、これは難しい。考えさせてもらいます」と笑っておしまいにした。

帰宅してから、面白半分で国語辞典を引いてみた。それによると、民主主義とは「人民が主権を持ち、自分たちのための政治を行う政治原理や政体」だとある。どうも、じゃんけんに結びつかない。念のため「民主的」も引いてみた。こちらでは、民主的とは「国民の主権を尊び、自由・平等になるように、お互いを尊重するさま」だという。なるほど、これでは「お互いを尊重」せずに、「勝ちたい、負けたくないという気持ちで争う」じゃんけんとは相容れないことになる。たしかに「民主的」ではない。したがって「民主主義」的でもないということになる。

いま、資本主義社会の行方が大きな問題になってきている。経済学250年の歴史では、モノづくり経済から始まり、貿易経済で伸び、サービス経済、マネー経済、電子空間経済へと“経済フロンティア”を目いっぱい拡大してきた。そして今、ビッグデータを駆使して瞬時の投資に賭けるじゃんけん勝負のような“じゃんけん経済”が展開される時代になった。世界が震撼したリーマンショックも、直接的には資本の手先となった、たった一人の辣腕トレーダーが、破たんを免れようと“掛け金”をどんどん大きくして大勝負に敗れたのが金融破綻のきっかけだといわれる。

こうして今、資本主義は「他者を尊重する民主主義」を捨て、これまで隠ぺいしてきた「勝ちたい、負けたくないと争う」資本主義の本性をむき出しにしつつある。一握りの富裕層が富を独占して“放出”せず、昔のように資本家からの“余慶”にあずかれなくなった中間層が“メルトダウン”して下層化し、貧しきものはますます貧しくなって、貧富の差は拡大するばかりである。

この先どうなる? “じゃんけん経済”の行方はだれも知らない。(2019・1・21 山崎義雄の「ババンG」に同テーマの拡大版あり)

ババン時評 「騙す統計」に騙されるな

 

いま、厚労省による「統計不正」が批判を浴びている。一般的に言って、統計や調査には「目的」があるが、往々にして正しい「目的」を装いながら、本音では、こんな調査結果を欲しい、などという「意図」をもって行われる調査や統計がある。むしろその方が多いとも言える。

隠された「意図」を持つ統計・調査は、巧妙な「設問」で回答を誘導する。その上さらに、調査結果に意図的な分析や解釈を加え、時には都合の悪い結果やデータは巧妙に隠して使わないことさえある。ビジネス上の調査・統計はほとんどそれだともいえる。

「統計は暴走する」(佐々木弾著 中央公論新社刊)は、「騙す統計」と「騙される国民」に警鐘を鳴らす。当てにならない統計の例として、英国のEU離脱前夜の国民投票ではEU残留予想が80%、米国大統領選では主要報道機関100社の予測がほぼ全てが民主党勝利を予測したのに結果は逆になった例を挙げる。

著者には悪いが、この例は、騙されたのは国民ではなく、マスコミや専門家のほうだと言うところが興味深い。ただし、その予測がはずれた原因が、積極的に声を上げない「サイレント・マジョリティ」を軽視したことにあるとする見方は頷ける。

日本の場合は、安倍総理の思惑通りに憲法改正問題が進展すれば、いずれ国民投票で判断を迫られることになる。新聞・マスコミの世論調査もあろう。勝手な予想だが、各機関の調査方法によって調査結果は少なからず違ってくるはずだ。

大新聞の例で考えれば、大ざっぱに言っても、「改憲反対」の朝日・毎日・東京新聞などと、「改憲賛成」の読売・産経・日経新聞などでは、おのずと調査の方法にも結果にも違いが出てくる。設問からして、「改憲反対」派のそれには、憲法の意義・理念重視の傾向が出るだろうし、「改憲賛成」派の設問には、日本を取り巻く「現実重視」の傾向が出るだろう。回答者としては、各新聞の主張に共鳴する者がその新聞の調査に協力し、積極的に回答することになる。結果として新聞社の主張が助長されることになろう。

今年の日本は、憲法問題だけでなく、政治・経済、社会問題など、多くの問題で国民意識が問われることになる。統計データにも、専門家の解説にもうっかり騙されない用心が必要だろう。(2119・1・18 山崎義雄の「ばばんG」に同テーマの拡大版あり)

ババン時評 コスパ良く感動したい

 

 

コスパ良く感動したい」という記事を読んだ。要するに、若者中心で流行っている、短い小説で効率よく手っ取り早く感動したいという話だ。実に安直でお手軽な感動で、“かた言ツイッター”に熱中する若者文化の“あだ花”と言っては失礼か。

朝日新聞(1月7日)のその記事は、河出書房新社と小説投稿サイト・エプリスタが立ち上げた青少年向け短編小説集シリーズの話である。内容は「5分後に感動のラスト」を迎える作品を応募で選んだものだという。たしかに日本には俳句という17文字の文学もある。しかし起承転結のストーリーを5分間の小説?に盛り込むのはやはり内容が安直にならざるを得ないだろう。

また、「5分小説」の重要なキーワードが、「涙」「切ない」だというのも笑わせる。まるで演歌のセリフではないか。演歌でも長めのものは一曲で5分ほどかかるが、「5分小説」では、大方の演歌と同様に、安直な涙、底の浅い切なさにならざるを得ないだろう。

と言いながらまた逆のことを言うようだが、演歌でも、例えば古い歌で、藤田まさと作詞「鴛鴦(おしどり)道中」の一節に、「染まぬはなしに 故郷を飛んで 娘盛りを 茶屋暮らし」という一節がある。友人T氏の言葉を借りると、これは、「親に強いられた縁談話がイヤで泣く泣く家出をしたものの、浮世の風は冷たく、あたら娘盛りの身で、茶屋働きの茶屋暮らしにまで落ちてしまった、という人生ストーリーを見事に描写している」ということになる。ちなみにその後の歌詞は、「茶碗酒なら 負けないけれど 人情からめば もろくなる」と、茶わん酒には強いが人情にはめっぽうモロい“いい女”が描かれる。

ということで、演歌の一節でも良いものは良い。また、必ずしも起承転結のある小説ではなくても、感動そのものを一篇に切り取ったような話に、ひところ世の中を感動させた、暮れの宵に貧しい母子3人が分け合って食べる「一杯のかけそば」の話などもある。

「小説投稿サイト・エプリスタ」は会員150万人とかで、作家志望の若者も多いらしい。(昔の)小説を“崇敬”する当方としては、昔の作家志望者は同人誌などでウデを磨いたものだが―などと考えたりして「5分間の小説」には違和感をもつのだが、ネット時代の若者文化の流れは傍観するしかないのかも―。(2019・1・14 山崎義雄 )

 

ババン時評 “ワキの甘い”日本?

テレビ番組などでは、日本びいきの外国人が少なくない。それに反して国際社会での日本の評判は、経済以外の政治・外交レベルであまり芳しくない。例えばゴーン元日産会長の初公判が開かれたが、フランスはじめ海外メディアの論調はゴーン寄りだ。

ここでゴーン氏の話を書きたいわけではないが、フランスの反応は当然としても、他の海外メディアの反応も、ゴーン氏の主張や立場に理解を示したり、日本の司法における人権上の疑問や拘留ルールの後進性に疑問を呈するものが少なくない。

書きたいのは、海外の“一般庶民”の日本観である。いま読まれている「日本が売られる」(堤未果著、幻冬舎刊)にこんな話がある。著者が取材した26歳の元米兵ブレイザーが語った。「日本には前から行きたかったんだ。水と安全がタダで、どこへ行ってもおいしい食べ物があるなんて最高だ。災害の時でも略奪しないで行儀よく列に並ぶ日本人の姿をネットで見た時は、本当に衝撃的だった。俺の友人にも、日本に住みたいって言うやつがたくさんいるよ。日本は今人手が足りなくて、外国人でも3カ月住めば医療保険に入れるんだろう? 病気になると破産するリスクがあるアメリカにいるより、日本で仕事を見つける方が心配なく暮らせるだろうな」。

政治・外交レベルではあまり高く評価されない日本だが、海外の一般人から見ると日本はそう見えるらしい。片や外国では、先進国といえども一般庶民は政治に虐げられ、厳しい生活を強いられているのではないか。それに比べて日本は、国家財政がピンチ、昨年も所得その他の格差拡大が問題となり、今年は消費税増税で生活が圧迫されるなど、問題山積だとされるのだが、どうも欧米先進国の国民生活に比べれば日本はまだマシなほうで、恵まれているのではないか。

ひょっとして、海外から見れば、日本は国にも国民にも緩みのある、“わきの甘い”国なのではないか。そんな日本に、出稼ぎや移住を望む外国人が流入する。歓待すべきか否か。日本の姿はどうあるべきか。今日本のどこかがおかしくなりつつあるのではないか。手におえない疑問が湧いてくる。(2019・1・10 山崎義雄)

ババン時評 困った隣国に囲まれる日本

いつまでも拉致被害者を返さない「人さらい国家 北朝鮮」、いつまでも日本に謝罪を要求する「謝れ!国家 韓国」、南シナ海の島々をオレの島だと囲い込む「シマ取り国家 中國」、困った隣人国家に囲まれた「お行儀国家 日本」はどうなる?。

今年も、こうした国々に囲まれて、日本にとっては多難な年になりそうだ。「アジアの一員」を自認し、良き隣人として平和に付き合おうとする日本に対して、彼らには、どうも折り合いをつけようとする気がないように見える。

北朝鮮は、拉致被害者の存在をほぼ認めながらも、調査すると言い、帰す素振りも見せない。約束しても守らない国であることは非核化問題でも立証済みだ。核を手放す気はない。トランプ米大統領文在寅韓国大統領もだまされかけている。

韓国も困った国だ。直近では、韓国軍艦艇による日本の海上自衛隊機に対するレーダー照射問題が起きた。日本の抗議に韓国が逆キレした。照射の有無を横において、日本が当時の映像を公開したことがけしからんと謝罪を要求。その映像を使って世界に逆宣伝。コトを荒立てず、お互い気を付けようという話にはならなかったのか。

慰安婦や徴用工問題などで、過去何度となく政治的決着をしても、政権が変わるたびに約束を反故にして、あらたな謝罪を要求してくる。日本では、異例の政権?だった自社さ連合政権時の村山首相が言った韓国への謝罪談話でさえ、保守本流内閣の今日でも、未だに日本の公式発言として謝罪のたびに準用している。

中国は、昨年、日本の沖ノ鳥島の領海内に侵入して海洋調査をした。日本の抗議を受けて中国は、なんと沖ノ鳥島は島でも何でもないただの岩礁だと言った。その中国は、これまで他国も領有権を主張する南シナ海の島や岩礁にコンクリート施設を作って中国の領有権を主張しているのだ。その中国が、わが身の反省もなく、日本国の東京都に属する沖ノ鳥島を島ではない、ただの岩礁だと決めつける態度はいかがなものか。

そうした困った隣人国家に囲まれて、なんとか穏やかな関係を保とうともがいているのがわが国、「お行儀国家 日本」だ。ああじれったい。(2019・1・9 山崎義雄)