ババン時評 「自殺念慮」をキャッチせよ

コロナ下の世相は暗い。昨年の自殺者は11年ぶりの増加となり、約2万1000人に上ったという。しかも女性や若者が多いというのがやりきれない。原因はいろいろと挙げられる。そもそも時代の流れは、人のつながりが薄れていく傾向にある。

コロナがそれに拍車をかけて、直接的な人間関係が忌避されてデジタル化が進み、社会的なつながりが薄くなり、孤立化が進む。飲食業、サービス業のコロナ倒産などで特に女性の職場が失われていく。加えて在宅時間が増え、特に女性は夫や家族との間でストレスが増える。

政府も手をこまぬいているわけではない。菅首相は、女性や若者、高齢者らの社会的な孤立や孤独の問題への取り組みを打ち出している。坂本1億総活躍相を担当閣僚に任命し、孤立や孤独を防ぐ生活困窮への対応策などで5月までに具体策をまとめるという。

そのための作業の取り組みには、①ソーシャルメディアの活用、②実態把握、③関係団体の連携支援、の3つの作業部会を設けて具体策を検討するという。しかしこの部会作業の内容を推量すると、見る前からあまり変わり映えのしない内容が見えてきそうで、「既視感」を覚える。

さらに、5月末までに政策をとりまとめて、今年度の政府の「経済財政運営と改革の基本方針」(骨太の方針)に盛り込むことを目指すとも言っているが、どこか目的外使用の感があり、それでおしまいということになりかねない。骨太方針の1項目にしてはなるまい。

コロナ以前の調査ではあるが、日本財団の若者調査では、4人に1人が「自殺念慮」を持っており、10人に1人が自殺未遂を経験している。原因の多くがいじめや不登校だというから、コロナ下の自殺増とは動機に違いもあるが、この調査で指摘している通り、自殺を防ぐポイントは、彼らの声にじっくり耳を傾ける姿勢だとする結論は間違いないだろう。

言い換えれば、いかにすれば彼らが胸の内に抱える悩みや不安を吐露してくれるのか、いかにすればSOSを発信するアクションを起こしてくれるのかが重要な課題になる。そのためには、若者が、女性が、高齢者が、それぞれの思いでSOSを発信する気になれる場やシステムが必要だ。

その上で親しく呼びかける必要がある。同時に、PRパンフの配布やアンケート調査、聞き取り調査などで積極的な働きかけを行うことが必要だろう。SOSキャッチのアプローチが、「自殺防止」対策に限らず「孤立・孤独」防止のための根本的な対策ではないか。(2021・3・23 山崎義雄)

ババン時評 のんき過ぎる「危害射撃」

政府は、ますますエスカレートする中国の「尖閣侵犯」に対処して注目すべき「見解」を打ち出した。海上保安機関・海警局の「海警船」や武器を持った民間の漁船などの「民兵船」が尖閣諸島に接近した場合、自衛隊が、相手を負傷させる可能性のある「危害射撃」を加えることができるという見解だ。しかしこの見解と「危害射撃」には少なからず違和感や疑問がある。

まず、「危害射撃」の法的根拠は、警察官職務執行法による「凶悪な罪」だ。なんと、この罪の判断は、海保巡視船の報告を受けて海上保安庁が行う。さらに海保では対処できないと判断すれば自衛隊の出動を要請する。緊急の閣僚会議が開かれ、決議を経て防衛相の発令で自衛隊が行動を起こす。自衛隊の行動は「警察行動」であり、これで中国海警船の「軍事行動」に対処するのだ。

それにしても、「危害射撃」を加えるまでに、多分こんなまどろっこしい手続きを延々とやるのだろう。その間、尖閣沖で手持ち無沙汰の海警船はどうする。明日また来るからと帰るか。尖閣に上陸して休んでから帰るか。多分、島で一泊して帰っても「危害射撃」を食らうことはないだろう。

伊藤祐靖著『法人奪還』(新潮社)は、北朝鮮の拉致日本人を武力で救出する未来小説だ。最初の緊急閣僚会合では、総理を差し置いて、「影の総理」と呼ばれる官房長官が強引に会議をリードして救出作戦を決定する。次の緊急会合には、自衛隊統合幕僚長ら5名の陸海トップと、実働部隊を指揮する一佐と二佐の2人が加わる。会議では、腰の引ける軍トップに業を煮やした一佐が総理に食い下がり、邦人救出作戦は可能だと断言する。二佐も同意見を述べ作戦は決定される。

隊員の人的犠牲を払って「邦人奪還」には成功する。記者会見で総理は、官房長官の入れ知恵で「国民の命を守るために国家の決断をくだした」と訴えて成功し、救出された息子を抱きしめる母親の報道写真などが世論に訴え、野党の「暴走政権」批判を封じ込めた。そして軍上層部に反抗した一佐と二佐は、懲罰人事のような部署にそれぞれ左遷される。

尖閣防衛に当たっては、この小説のような醜態を演じないように指揮命令系統の整備を急ぐべきだ。そして戦略的には、海保巡視船の海自に準じた実力アップを図る必要がある。さらには、尖閣防衛への「警察行動」を超えた積極的な自衛隊投入を図り、具体的な米軍の支援体制を協議すべきだろう。(2021・3・20 山崎義雄)

ババン時評 文在寅相手にせず?!

文在寅韓国大統領が、日本の植民地支配に抵抗した1919年(大正8年)の「3・1独立運動」を記念する式典で演説し、「未来志向的な発展にさらに力を注がねばならない」として、日韓関係の改善に取り組む姿勢を示した。この手の発言はよくやるが、実行が伴ったことはない。徴用工でも慰安婦でも、いまだに「未来志向的な発展に力を注ぐ」気配がない。

「日韓関係の改善は双方の国益にかない、地域の安定にも資する」とか、「両国の協力と未来の発展に向けた努力も、とどまることなく行う」などの発言はまことに仰せの通りだが、「不幸な歴史を忘れない」「日本との歴史問題の解決に取り組み続ける」となって、いつもことはややこしくなる。

これらの発言はまさに空念仏で、具体的に日韓の関係回復に動く気配も歴史問題に取り組む気配も未来志向の気配も全くない。文大統領にはハナからそんな努力をする気はない。「韓国政府はいつでも日本政府と向き合い、対話する準備ができている」と言っているが、語るに落ちるで、まさに自らは動かない、何もしない、対話に応じるから日本が具体策を示せと言っているに等しい。

「韓国の成長は日本の発展にを支え、日本の成長は韓国の発展を支えた」とは笑わせる。日韓併合時代から戦後の経済成長まで、日本は韓国の成長に支えられて発展してきたというのか。どこからこのような誇大妄想的なストーリーが出てくるのだろうか。

それにしてもこのように、文氏が態度を軟化させたような発言をする背景には、2つの理由が考えられる。1つは、日韓の連携が日米韓の連携にとって欠かせないとするバイデン政権の圧力があったとみられることだ。もう1つは、大統領任期を1年後に控えて、めぼしい実績を残していないことだ。

弱気になった文氏は、大審院判決に基づく元徴用工に対する賠償金問題でも苦慮しているようだ。自らシナリオを描いたような大審院判決に縛られ、賠償金を韓国政府が肩代わりして解決しようと原告の説得を試みたりしたらしいが、反対があってうまくいかなかったようだ。

結論的に言えば、文大統領に日中関係の改善を期待するのは馬鹿げている。日中戦争時の近衛文麿首相が、「蒋介石を相手にせず」と声明を出して、歴史的なしくじりとなったが、今、残り任期1年の「文在寅を相手にせず」と宣言しても歴史的なしくじりとはならないだろう。文大統領にものを言ってもはじまらない。韓国への言い分は、世界に向けて、次いで来年の大統領選に臨む韓国民に向けて発信すべきだ。(2921・3・12 山崎義雄)

ババン時評「わいせつ教員」の罪と罰

洋の東西を問わず、昔から幼い子供を性的嗜好の対象にする「人間だけの悪癖」は後を絶たない。対象は女の子に限らず、戦国武将が愛した小姓などの例もある。一般人にとっても、だれにとっても汚れを知らない子供は無条件にかわいい存在だ。抱きしめてやりたいと思うことがあっても当然で、むしろ健康な感情だとさえ言えるのではないか。

しかし健康な常識を持つ人間は、その先に踏み込んでかわいい子供を性的欲求の対象にしようとは思わない。たとえ思うことがあっても、一時的に魔が差すことがあったとしてもそこで踏みとどまるのが健康な人間の常識だ。リカちゃん人形にハマる中高年男性の話なども聞くが、彼らはその限界を超えて生身の子供を自分の嗜好の対象にしようとは思わない。

したがって、今社会問題になっている「わいせつ教員」も、一概に許しがたい犯罪者だと決めつけられない面がないわけではない。例えば強い人間か弱い人間かといえば、自己抑制が効かなかったという意味で「わいせつ教員」は弱い人間だと言えるのではないか。しかし、弱い人間だから許せというわけにはいかない。そのために深く傷つく被害者の子供がいる。

社会経験もなく判断力も未熟な未成年者の心身を傷つける行為は、無抵抗の児童に対して教師の地位を利用して加害に及ぶもので、特殊で一方的な犯罪だ。国民の感覚からいえば、「わいせつ教員」には二度と教壇に立って欲しくないと思うのが当然だ。そのためには教員免許の剥奪を「無期限化」しなければならないが、これには、一定期間を過ぎれば免許を再取得できる他資格と不公平になるとか、一定の罪を償えば社会復帰できる刑法と「整合性」がとれない、などの疑問がある。

しかし、他の犯罪のように、罪を償って晴れて教壇に立つというのは常識的に違和感がある。刑事罰には「教育刑」と「因果応報刑」の考え方がある。前者は、罰はまともな人間に立ち直らせるためにあるというものであり、後者は犯した罪に与える応報の罰であるとするものだ。この際、「わいせつ教員」に対しては「教育刑」的な配慮を捨てて、「応報刑」的判断で教員免許剥奪の「無期限化、永久化」を実現すべきだろう。

「わいせつ教員」の人間的な弱さに一片の同情がないわけではないが、懲戒免職で教員免許を剥奪された者は、教員免許の有無、失効と再交付問題以前に、性的衝動に弱いがゆえに子供を教導する資格のない自らを深く反省し、他の分野で生きる道を切り開くべきだろう。(2021・3・9 山崎義雄)

ババン時評 習近平は歴代中国の新皇帝

共産党中国が特殊で厄介な国であることは論をまたない。それについて、中国出身でトランプ前政権の対中政策ブレーンだったマイルズ・ユー氏が、対中国で「幻想は不要」だと語っている。読売の電話インタビューに答えたもので、中国が共産党独裁体制である現実に向き合わなければ、外交政策は非現実的で危険なものに基づくものとなると述べ、中国を普通の国のように扱うことは根本的に間違っていると明快に断じた(読売3・4)。

それは今に始まったことではない。この「ババン時評」でも折に触れて取り上げてきた。そもそも中国の歴史は歴代の皇帝による一党独裁的な覇権国家だった。中国4000年の歴史などというが、日本の天皇ほどの正統性はない。モンゴル系民族に侵略・支配された元王朝満州民族に支配された清王朝など、絶えず異民族に支配されながら政権交代を繰り返し続けた略奪・分断国家である。

中国の皇帝は、紀元前221年に中国を統一した秦の始皇帝から、天の命ずる「皇」と地を支配する「帝」を合体した「皇帝」を自称するようになった。歴代皇帝は、新たな天命すなわち天の命ずるところによって旧政権を滅亡させて新たな国を建て、その支配者すなわち帝王となる。これは儒教の教えに基づくものであり、実態は暴力革命による政権簒奪でありそれが中国の歴史である。

それが現代にいたるまで変わることのない中国の本質である。そもそも現代にいたるまで中国に近代化の試みは一度たりともなかった。日本が明治維新で必死に近代化を目指していた時、中国は西太后が権力を掌握し泥沼の宮廷内闘争に明け暮れていた。日清戦争に敗れても権力闘争が続き、ついに中国は日本的近代化の道には進めなかった。

唯一、近代化を目指したかに見えた辛亥革命も、これを起こした孫文の狙いは日本が作った満州朝廷に変わる孫文朝廷の建設だったとされる。その後を狙った蒋介石の国民党は、米国の介入で共産党との国共連合政府を樹立。どうにか日中戦争に勝利した形になったものの、大戦後に国共内戦ぼっ発。敗れた国民党・蒋介石は台湾に逃れ、勝利した毛沢東共産党政権を実現して、中国古来の王朝に変わる「赤い皇帝」となった。

以来、中国の一党独裁が続き、今、習近平国家主席が強権をもって自らの地位と任期の制限を撤廃し、終身の国家主席を可能にした。毛沢東にならって習近平思想の学習を共産党に課した。すでに習近平は歴代中国の新皇帝である。(2021・3・4 山崎義雄)

 

 

ババン時評 「親子判定」今むかし

昔話の大岡裁きで、子供の親権を争う2人の女に、子供の両手を双方から引っ張り合いをさせて、どっちが本物の母親かを決める話がある。「私の子だ」と2人の女に両方から強く手を引っ張られて痛さに子供が泣く。大岡判決は、泣く子がかわいそうで手を離した方の女を母親であると裁定する。もちろん作り話である。いまならDNA鑑定で簡単に決着がつくのだが、むかしの親子関係の認定はさだめし難しかっただろう。

先に「無戸籍で揺れる“血の絆”」というテーマで一文を書いた。戸籍をもたない人間、すなわち無戸籍者は、極端な場合は自分が誰の子であるかが分からないということである。あるいは親子で無戸籍のまま一緒に住んでいるとか、人から聞いて親(の顔)は知っているような場合でも、戸籍の上では親子と認められていないということだ。今進められている民法改正の大きな狙いは、生まれた子を誰の子とするかという嫡出推定制度の見直しだ。

大岡裁きの続きのような話だが、これは現代の話で、知人の弁護士先生に聞いた話ではあるが信じがたい話で、ただの笑い話かもしれない。話は、外で女に産ませた我が子を認知しない男を相手取って、その女が財産分与がらみの訴訟を起こした。互いに譲らず裁判でもめた挙句、裁判官が問題のその子供を法廷に連れてくるように被告に求めた。裁判官は、法廷に出てきたその子供の顔と被告の顔を交互に見比べた上で「実子である」と判定し、被告に認めさせて結審したという。

さて、この話は正真正銘の実話だ。ある地方都市で、教員として学校長まで歴任し、市の教育長を務めた人が亡くなった。葬儀の折り、多くの会葬者の中の一人、親族の見知らぬ中年男性が香を手向けた。その後、何かのきっかけで、その男性は故人が外で作った“隠し子”だということが判明した。

その驚くべき事実に直面した途端に、故人の遺族や親族は、その男性が故人に生き写しだったので、実子であることを即座に納得した。そして「実印が現れた」と言って驚いたという。この話にはおまけがあり、後日、身内となったその男性を遺産相続の話し合いに迎えようとしたら、生前良くしてもらっているので結構ですと断られたという。

これからは、そんな浮世離れした話はもう聞けないだろう。それにしてもDNA鑑定以前、長い歴史における親子認定は悲喜こもごもの色濃い情の世界だったろうが、今は嫡出認定でもめればDNA鑑定となり、無味乾燥の索漠たる科学の世界になった。

さらにこれからは男女の付き合いも、親子や家族のあり方も大きく変わる。これまでの夫婦別姓問題や新たなジェンダーフリー(社会的性差からの開放)問題などややこしい問題が山積する。もはや明治以来の古臭い法律では通用しない時代になっていると言えよう。(2021・2・25 山崎義雄)

ババン時評 「口下手」首相?変身中!

いまや菅首相の口下手は衆目の一致するところとなった。読売(R3・2・20)は「政治の現場」レポートで、脱「発信下手」模索続く 首相、などと報じている。それによると、菅首相は2月2日の夜、人払いした首相官邸の記者会見室で、初めて使うプロンプター(原稿映写機)の角度などを念入りに確認したという。

そして、「記者会見の冒頭発言で、菅は13分にわたってプロンプターを使った。時折、視線を左右に振り、下を向く場面はぐっと減った。顔を上げたことで声量が増し、与党からもいい会見だったと好意的に受け止められた―」と記している。

官房長官としての菅さんの持ち味は、苦労人の重みと冷静さにあった。しかし首相となるとそれだけでは立ち行かない。安倍前首相は官房長官も首相もコナしたが、それができる「本質」を持ち合わせていたと言えよう。ありていに言えばネアカの安倍元首相とネクラの菅首相の違いである。

先の読売記事は、米ユタ大学の東昭二教授(社会言語学)の話を紹介している。すなわち菅首相の話し方は「情報の伝達にとどまっている。聞き手の情緒や感情に働きかけるには、繰り返しによる協調や対話性、ストーリーなどを交ぜながら語ることが欠かせない」との指摘である。

私はだいぶ以前に東教授の『言語学者が政治家を丸裸にする』(文藝春秋)の感想をネットに紹介したことがある(2007・10)。同書には、人間の会話における話し方には「リポート・トーク」と「ラポート・トーク」の2つがあるとして、前者は世の中の各種の情報をリポートするような事実に基づく話し方、後者は相手との心の交流を求めるような情緒的な話し方だとある。

まさに菅首相の話し方は「リポート・トーク」であり、官房長官の時はそれでよかったかもしれないが、一国の首相となれば「ラポート・トーク」の重要性に気付かなければなるまい。とりわけ目下のコロナ対策では、国民の気持ちをつかむ必要があり、話し手と聞き手の心理的距離感を縮める「ラポート・トーク」は欠かせない。

菅首相もこれに気付いたからこそ、読売が伝えるように、プロンプターを使った2日の記者会見で「私も日々悩み、考えながら走っている」と語ったと言い、同紙はこれを「珍しく心の内を見せた瞬間だった」と報じている。東教授は「本人の気持ち次第で、確実に変われる。『今までやってきたから、これでいい』では、国民は離れる」とアドバイスする。口下手首相の変身に期待したい。(2021・2・21 山崎義雄)